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#劇場版おっさんずラブ を久しぶりに見たけれど改めてこの作品が描きたかったものを考えた話

「劇場版おっさんずラブ LOVE or DEAD」、私はこの作品が好きだ。

おそらくこれまで優に50回は見ているだろう。
しかし、この1年ほどの間、ご無沙汰していたのだ。自分の中である程度、この作品に対する理解が進み解釈が固まっていたし、ドラマから4年、劇場版の公開から3年が経つ中で、私にとっておっさんずラブは、「宝箱」に仕舞いいつまでも大切にしておきたい、時々蓋を開けてはその輝きを楽しむ、そうした作品はなりつつあった。

それが昨晩ふと、「そうだ、おっさんずラブを見よう」とひらめいた。
春だからかもしれない。私のなかで、GWとこの作品が切っても切れない関係にあるからかもしれない。
深夜1時を回ったころ、一人リビングでAmazonプライム(いつでも見られるようにBlue-layとは別に購入していた)を再生し、結局最後まで食い入るように見てしまった。

「いやー……やっぱり面白よねおっさんずラブ……」

既に50回も見ている作品なのに随所で唸り、その後、案の定さまざまなことを考えてしまい眠れなくなった。
何よりもコロナという人生観が変わるような出来事を経験したことで作品の解釈も変わったように感じ、それがまた面白かった。
こうした自分の中での解釈を何かに残したいと思ったので、今このnoteを書いている。

久しぶりに見た劇場版に対し最も感じたのは、この作品は恋人関係のその先を描きたい作品なのだ、ということだった。

そんなの、ファンからしてみたら何を今更という話だ。
しかし、久しぶりに見た劇場版からは、もしかしたら何十回も見ていたあの頃よりも強くそのテーマを感じたような気がした。

端的に言うと、恋をし身体的に近づきたい、触れ合いたいと思った相手との間でその欲求が満たされたあと、二人の関係をさらに深めていくとはどういうことなのかを描いた作品なのだと感じた。

連続ドラマのおっさんずラブが凄いと思ったのは、人を好きと思う気持ちから逃げなかったことだと思う。

そのひとつが、誰かに対しキスしたいとかもっと近づきたいという気持ちを茶化すことなくまっすぐ描いたことだと思っている。
好きな人だと思えた人に、自分の中で勝手に「この人は恋愛してはならない」とか「恋愛対象外」とか線を引いたりカテゴライズすることなく、まっすぐ好きと言える素晴らしさ。

「毎週面白おかしく見ていたコメディドラマ」が「このドラマは凄い」になったのは、そうした「好き」という気持ちの純粋さを描き切ったからだ。

連続ドラマは、恋に気が付いた春田創一が、その気持ちの向かう先である牧凌太の想いを受け止めて、最後は自らあれだけ戸惑っていたキスを牧に仕掛けるところで終わる(ブラックアウトする)。「キス」が象徴的に使われた作品だったので、続編となる劇場版ではどのように描かれるんだろうという気持ちもあったし、だからこそエンディングのあとが「ここからが本編!」と応援上映などでは言われていたのかなと思う。
 
しかし、昨晩久しぶりに劇場版を見ていて思ったのは、この作品は決してキスのような、身体的に触れ合う行為自体を描きたいわけではないということだった。

恋人として気持ちが通い合ったあとの二人の間にどのような関係があったのかは見る者にゆだねている。
でもなにか一定の進展があり、二人の関係がドラマの頃とは変わっていることは匂わせる。恋人になった二人なのだということはしっかり見せる。そうしたなかで、二人がさらに深い関係を構築していく葛藤を描きたかったのだろう。

触れ合いたいと思った相手との間でその欲求が満たされたあとからスタートするので、当然、連続ドラマとは春田と牧の関係は変わる。

劇場版を初めて見た当時は、春田の牧への想いが大きくなっていることに感動すら覚えたし、続編をずっと楽しみに待っていたオタクだからこそ、それをポジティブに受け止めていたと思う。
けれど、少し冷静になって見ると、春田がそうした牧との関係に固執しているように感じた。

春田にとっては牧と身体的な距離が近づいたことで、牧が近くにいるとなれば当然のようにすぐに傍に行こうとする。
帰国して休みでも良いけれどすぐに職場に向かうし、仕事中でもお構いなく近づくし、家に帰ればまず一直線に抱き着く。
恋人になった春田は、牧の本心を尋ねることもせず、「結婚したい」「家族になりたい」という自分の想いが牧のそれと同じなのだと無意識に思い込んでいる。
春田は好きだと自覚した相手とは、常になるべく近くにいたいのだろう。
それを邪魔する理由を見つけては嫉妬する。
「あいつ、この1年ですっげー変わった」と言うけれど、おそらく春田だって1年間で変わったのだ。

牧は牧で、やはり恋人になったから、自分の理想が叶ったからこそ考え方が変わっている。
牧にとっては恋人関係でいられる今が最も理想的な姿なので、いかにその関係を壊さないかを考える。
一緒に棲むことによって春田の悪い面が見えて失望してしまうのは嫌だし、逆に言えば春田が自分の姿を見て失望させてしまうのはもっと嫌なのだ。
要するに、牧は恋人である春田の前では格好つけていたいのである。
だから、夢を見つけて仕事に邁進するし、自分に投資だってする。
そうやって昇りつめていくことがエリートの彼にとって「格好つけていること」なのではないかと思う。

恋が叶い、二人の間に新しい関係が出来たからこそ、お互いに相手との距離感が変わり始めている。
劇場版おっさんずラブが描きたかったのは、そうした「幸せの過渡期」だったのではないだろうか。

この観点から考えると劇場版のさまざまなシーンの解釈が少し変わった。

例えば、牧の仕事に対する態度である。仕事に打ち込み夢を叶える姿こそが牧凌太の理想、つまり一番好きな自分の姿で、春田に見せていたい姿だったのだろう(そうした理想があったからこそ、何をしたら良いか分からなかった就活時代に悩んだのだろう)。
また、「春田さんみたいになんでもギャーギャー言いたくないんですよ」という花火大会での一言も納得がいく。
牧の中にも嫉妬や不満などさまざまな思いがあっただろう。
一方で、そうした自分の本音を口にしてしまえば春田との関係が壊れてしまうと思うからこそ、牧は仕事に邁進し、春田と会えるわずかな時間を大切にしていたのだ。

観客は、春田の視点から物語を追いかける。
劇場版の春田は牧が傍にいることを当然と受け止めているので、牧がいかに二人の関係を大事にしているか、牧自身の努力が見えにくくなっている。
残業後に電車に乗り、春田の実家近くのわんだほうまで顔を見せに行くのも、自分が関わるプロジェクトが暗礁に乗り上げ忙しい中、有給を取って花火を一緒に見ようという約束を果たそうとするのも、恋人に対する牧なりの愛情表現なのだと思う。
香港で春田が見知らぬ男とベッドを共にしていたら、かつての牧は食ってかかったかもしれないけれど、何も言わずに部屋から立ち去り、ちずにだけ「浮気」と愚痴をこぼした。
恋人になったからこそ、牧は本音が言えなくなってしまったのだなと思った。
それは、春田の幸せを願って身を引いた頃とはまた違う。幸せを知ってしまったからこそ、手放せなくなったのだと思う。

一方で、前述したようにやはり1年で凄く変わったのは春田の方なのではないかとも今回見ていて感じた。
春田は牧の逆で、恋人になったことで、ずっと距離が近づいた。
好きな人には気を許し近くに常に近くにいたいように見えたし、自分の気持ちはなんでも伝えて共感したいように感じた。自分と同じ思いを相手に持っていて欲しいし、それを邪魔するものに嫉妬する。
牧が生活の中心に来るのだけど、決して牧の本音や思いを汲み取ろうとはしない。
ある意味、春田は少し恋愛に依存するタイプなのだと思った。

そういう二人だからこそ、最後は牧のシンガポール駐在という、別々の道を選ばせたのだろう。

劇場版の春田にとってみれば、牧が自分の傍から離れることを選択するのは、相当なストレスのはずである。実家から出ていくことすら認められなかった男である。
また、牧にとっては仕事の夢を春田に語ることに高いハードルがあるのではないかと思う。なぜなら、それをすることで春田が自分を嫌いになるのではないかと常に恐れているからである。いつでも格好良い牧凌太でいたいのだ。
だから、牧が春田に「シンガポールに行きたい」と、要は自分の本音を相手に伝えられるようになること。春田は牧のシンガポール行きを応援できること、つまり、自分が一番近くにいなくても、自分とは違う牧凌太の生き方を受け止めて、信頼し、応援できること
これがこの二人にとって、関係性が更に深まったことの現れなのだと言いたかったのではないだろうか。

記憶喪失というのが劇場版のファクターのひとつとして存在するけれど、春田が炎の中で語る「ボケちゃって、出会った頃のことを忘れても。ていうか……俺が誰か分からなくなっても」「牧じゃなきゃ嫌だ」という一連の台詞はとても大事なのである。

春田は、黒澤武蔵が記憶喪失となり、「はるたん」として過ごした自分のことを忘れてしまったことがショックだし違和感もある。受け止めきれていないのだ。
でも、牧が同じように自分と過ごした日々のことを忘れてしまっても、牧凌太でさえあれば良い、牧凌太が良いのだと彼の全てを受け止める
だからこそ、牧は本音が言えるようになる。
「春田さんじゃなきゃ嫌だ」と彼の言うところの「ギャーギャー言う」ような、かっこ悪くても取り繕わない本音を伝えられるようになる。その先に「シンガポールに行きたい」「夢をかなえたい」という自分の気持ちを伝えても大丈夫だという信頼関係が生まれるのだと思う。

このドラマは、キスをして身体が触れ合えて、恋人同士、それで幸せだよね、それで家族になれるんだよね、では終わらせ無かった。

その先、二人が本当にお互いを信頼し合える(=「家族」になる)ためにはどうしたら良いのかを描いたのが劇場版なのかもしれない。

お互いを尊重し合い、受け止めて、応援し合える。
その象徴が、「結婚している」けれど「一緒には暮らさない」なのだろう。
連続ドラマの頃から身体的な接触を逃げずに映像化しているけれど、本当に描きたいものはいつも純粋な、この世の中に果たして存在するのか分からない、理想の「好き」という感情だなと思う。
家族や制度よりも、二人の間の葛藤と気持ちを優先して描くので、笑いでくるんでいるけれど濃厚な作品だとも思った。

3年前に映画館へ足を運んでいた時、こうした感情を究極的だとすら思った。
死を目の前に感じさせた想いを上回ることはできないので、これ以上、二人の関係を発展させることはできない、だから完結なのだと思った。
しかし、コロナの流行により、事態は一変した。
距離が離れていても気持ちさえあれば繋がれる、オンラインで代替できるという神話が今や揺らぎつつある。
やはり直接顔を合わせられることが大事なのではないか一緒にいられることは幸せなのではないか。世の中は改めて、好きな人と直接会い交流できることを評価するようにになりつつある。

こうした価値観の変わった社会だからこそ、おっさんずラブで描けるものがあるかもしれないと、鑑賞後にふと思った。

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