劇場版おっさんずラブ LOVE or DEAD 感想まとめ【S4:牧が春田の部屋へやってくる】
■林遣都の瞳の動きに目を奪われる
劇場版を見て、いの一番に衝撃を受けたことを挙げるとすれば、あの牧凌太が「你好!」と茶目っ気たっぷりに香港の春田の部屋へ現れることだろう。インターホンを鳴らしても返事がない家主を待つことなく入ってくるその様は、今の彼と春田の関係を否応なく伝えてくる。おそらく合い鍵を持っていて、インターホンを鳴らして「お邪魔します」なんて言う間柄ではないのだ。その春田の隣に自分の居場所があることを当たり前のこととして受け取っている、ただひたすら春田と会えるそのことだけに喜びを感じられる牧のその笑顔に、幸せを感じてしまうのである。
おっさんずラブの林遣都といえば、その雄弁すぎる瞳の動きだと個人的には思っているが、劇場版でもそれは健在である。むしろ、スクリーンサイズが大きいので、テレビよりも更に彼の瞳は語り始める。ベッドに横たわる上裸の外国人を見て、春田を見て、ちらっと視線を下に動かし下着一枚なのを確認し、すべてを察して諦める。「你好!」ときらきらと輝いていた瞳から、ふっと光が消える。春田に会えて嬉しかったのに、浮気なんてしないとどこかでは信じているのに、その瞬間、それでも春田が許せなくて、でもそれを言葉にするのは何よりも格好悪くて自分に対して面倒くさくて、すぐに諦めてしまう牧凌太。
あの瞳の動きだけで伝わるものが多すぎる。そしてまた映画でも、その瞳の動きに目が奪われてしまうのだ。
■あのプロポーズで春田の世界は変わったのだということ
劇場版おっさんずラブを鑑賞しまず衝撃を受けたのは、ドラマに比べてパワーワード(言ってしまえば「巨根じゃだめですか」)やキスシーンのような、受け手を選ぶ性的関係を感じさせる直接的なシーンは減っているのに、ドラマの時以上に春田に男性との行為を想像させることだった。
そのことが春田の世界はあのプロポーズで変わったのだと一番実感させられるところでもあった。
田中圭は何かの雑誌で「春田はゲイじゃない」と発言し物議を醸したことがあった。劇場版を通して、私は春田が「ゲイ」かは分からないが、男の人と恋愛したり性的な関係を持つことに違和感がなくなったという印象は少なくとも抱いた。
冒頭の見知らぬ外国人がベッドで寝ているシーンといい、狸穴に呼ばれホテルに向かい、「ここで時の流れに身を任せれば、狸穴は牧にいかないかもしれない」とベッドに倒れこむシーンといい、春田の思考回路がドラマの時から変化していることをあらゆるシーンから感じさせられる。特に後者は「もしかしたら狸穴は男が好きなの?俺のことをそういう風に見ているの?」と認識したときに、身体を差し出せばいいという発想に至り行動に移してしまうことに衝撃すら受けた。ベッドに飛び込めば狸穴が襲ってくるかもしれないと思っている。黒澤部長に襲われるかもしれない走って泣きながら逃げていた男が、それを自らやってのけるのである。
このシーンを見て、春田の世界は連ドラの時と大きく変わっているし、それが変わった理由の裏には当然牧との1年があるからだと思わずにはいられなかった。
話が前後してしまうけれど、冒頭のベッドで寝ていたのが見知らぬ外国人の男というのもおっさんずラブらしいと言えばそうだけど、それ以上に驚いたものである。そこまで描いてしまうのかと。
そもそも、今回春田の世界には女性が出てこない。春田と牧の関係性に入ってくるのは、すべて男性である。実態としてふたりの恋愛に絡んでくる人は一人もいないのに、それで動揺するし、時にはそれで相手から意識してもらおうと駆け引きすらするのである。(春田の「ジャスティスと一緒にいたほうが数倍楽しい」はまさに駆け引きの一言に尽きる。春田にとってはただの後輩なのに、そうやって言えば牧が嫉妬してくれる、春田が欲しい言葉を言ってくれるのではないかとどこかで期待しているからこそ言ってしまう。)
見知らぬ男性と裸でベッドを共にした。春田にとっては「酔っている人を見つけたら寝かせてあげる」のは当然で「真っ白」の行為だと考えていても、いざ牧に見つかったら、その行為を「浮気」と受け取られてしまうと分かっているのだ。だから「浮気じゃないからね」とあんなにも狼狽えてしまう。
ドラマの7話ラストにおけるじゃれ合うシーンも、それまで遠慮しがちだったお互いの身体に対し、がっつりと組み合って無遠慮に叩き合う、そうした身体的接触をすることに驚いた。だけど劇場版はそれ以上で、どのシーンもすべて春田が牧に自分の身体を寄せていく。牧もそれを嫌がったりはしない。むしろそれを当然のものとしている。それどころか、例えばサウナのシーンではお尻を叩くは胸筋を触るジャスにブチギレるわで、春田の身体的部分に対する遠慮が一切ない。
性的なものを感じさせる直接的な表現が少なくなっているはずなのに、こういうひとつひとつの積み重ねから、ふたりの関係性の進展がひしひしと伝わってくると思ったし、その点はドラマと次元が違うとすら感じた。
むしろ、直接的描写は一切ないのに、ここまで伝わってくる空気感に逆に緊張させられてしまうのだ。
ドラマには恋に気付くまでの過程を丁寧に描きこむという素晴らしさや高揚感があった。映画はまったく別もので、ふたりでいるときの空気や視線の交わし方、関係性の作りこみ方をじっくり楽しむものだと思っている。大塚寧々が舞台あいさつで言っていた、きゅんとして細胞が震えるという感覚がよく分かる。
ドラマは瞳で演技をするといえば林遣都の代名詞だったが、今回は牧の瞳の雄弁さをきちんと受け取ってそれに返す春田の瞳の演技もレベルが高い。そのふたりのやりとりをあの大きいスクリーンで見られるのは贅沢。むしろ、あの大きいスクリーンだからこそ、田中圭の瞳の演技まで目がいく。
(田中圭が林遣都に嫉妬することで「瞳が大きくてウルウルしている」と言ったのも頷ける。だって、ふたりのコミュニケーションを言葉に頼らず視線だけでやろうとしたら、林遣都の右に出るものはいない。)
あれだけ情報量のあるコミュニケーションが取れてしまう、関係性が作れてしまうふたりの凄さ。シナリオを見ると尚更よく分かる。今回は、ドラマの時のような一見するとアドリブだと気付かないような、物語の枠組みに収まりすぎた突発的なセリフというものはない。しかし、今回はふたりの作り出した春田と牧の関係性そのものがアドリブと言っても過言ではない。
言ってしまえば、全てが7話ラストみたいなものなんだろうと思う。ふたりと監督で相当コミュニケーションを取りながら作ったに違いない。
◇個人的なみどころ
劇場版では春田の登場だけではなく、牧の初登場シーンもまた観客に印象付けるよう演出されている。
スーツケースを引く後ろ姿から始まり、口元のアップ、春田の住むアパートの階段を上る様子、そしてようやく表情が映し出される。ドラマの初登場シーンと比較しても、非常に勿体ぶった演出の仕方である。
連ドラと劇場版、いずれも春田が一人称の物語であり、春田の言葉で物語が展開されていく。一方で特に劇場版においては牧の物語でもあるのだということを、個人的にはこうした演出から感じるのである。
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