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双子出産記#6 はじめて長男と離れて暮らした40日間


2023年7月28日。
33週1日目の診察で子宮頚管が23㎜になり、そのまま管理入院することになってしまった。

あれよあれよと言う間に外来の待合室から車椅子で病棟に運ばれ、入院の説明を受ける。
4人部屋の、空いたばかりだという窓際のベッドを使わせてもらうことになった。窓が大きくて、周りに高い建物がないので琵琶湖がよく見える。街と湖の上には、眩しい青空が広がっていた。まさに、「夏休みの空」という感じ。
入院が決まった憂鬱のなか、すがすがしい景色は少し気分を上げてくれた。湖を眺めながら、臨月を過ごすのか。きっと一生忘れられない景色になるんだろうな、などと感傷に浸った。

〇〇〇

ぼんやりしていたのも束の間、助産師さんが点滴セットを持ってきてくれた。
「これで張り止めのお薬を身体に入れていきますね。お風呂のときも、寝るときも、24時間点滴はつないだままになります。点滴を外すのは、産後になるかな。そしたら腕、見せてもらえますか。」

助産師さんはテキパキと説明をすると、慣れた手つきで私の右腕に消毒をして、スッと点滴針を刺した。
1週間は針を変えないので、ズレないように針とチューブをしっかりと腕に固定する。点滴の針は採血用のものより太く、テープで固定すると食い込んで痛い。腕を動かすたびにピリッと痛みが走るし、動かさなくても、ジンジンと熱を持っている感じがした。

ゆ、ゆううつ〜!

腕の痛みとともに、現実に引き戻される。あと1か月以上この痛みと共に生活しなくてはならない。1か月があまりに長く感じて絶望する。
そのうえ、しばらくすると薬の副作用で手が震えてきた。動悸もして、息苦しい。同じ張り止め(リトドリン)の内服薬を入院前も飲んでいたけれど、副作用をここまで強く感じるのは初めてだった。もともとお腹の圧迫感で呼吸が浅いので、座っていることすらしんどい。
少し横になったけれど、心臓の音がドクドクと頭に響いて、寝ることもできなかった。

〇〇〇

入院が決まって何より気がかりだったのは、当時2歳だった長男のこと。
ちゃんと別れを惜しむこともできぬまま、双子を出産して退院するまで、会えないことになった。
ずっとずっと成長を1番近くで見守ってきたのに、1か月以上離れて暮らすなんて。
寝るときにいつもくっついていた母がいなくなっても、長男はちゃんと寝れるだろうか。寂しくて泣かせてしまうのではないかと思うと、胸が苦しくなった。

夫のことも心配だった。
長男は3歳を目前にして、イヤイヤ期は抜けつつも、単純な拒否を超えてもっと複雑な要求をするようになっていた。
かわいくて無邪気で愛おしいけれど、幼さゆえに気分屋でマイペース。
大人1人で相手をすると、ひどく疲弊する。
長男がささいなきっかけから泣き始め、だんだん本人もどうして泣いているのか分からなくなってしまったようなときに、「あ~どうしよっか」と笑いあえる大人が家にいるのといないのでは、精神的負担が大きく変わる。

義両親が隣の家に住んでいるのは安心材料の一つではあったけれど、やはり親と祖父母では子に対する責任感や当事者意識が違う。
例えるなら、親が正社員の常駐スタッフだとしたら、祖父母は臨時のアルバイトやボランティアのスタッフのようなイメージ。
手は貸してくれるけど、指示が必要。アレして、コレして、と言わないと何をしたらいいか知らないし、勝手に動かれても困る。寝かしつけやグズグズの対応など、親じゃないと子が拒否することもたくさんある。祖父母の手助けがあったとしても、確実に大変だろうと想像できた。

一方で、ほんの少し、夫もワンオペを経験して、その大変さと、パートナーと一緒に育児する安心感を身をもって知る良い機会かも、とも思った。
栄養バランスを考えたごはんを作ってくれて、育児を一緒にする人がいるって、ありがたいでしょ?土日のワンオペは辛いでしょう?母、そして妻がいないと寂しいでしょう?と、自分の存在意義を確認してくれたらいいな、なんて気持ちもわずかにあった。
いや、こう書いてみると、わずかじゃなく、しっかり、あったのかもしれない。

しかし、いざ入院生活が始まってみると、予想は大きく覆された。
私が入院しても、全然問題なかった。
夫は確かに大変そうではあったけれど、両親の手を借りながら上手く生活を回していたし、長男は全く寂しがらなかった。本当に、驚くほどすんなりと、母の不在を受け入れた。
正直、今までの私の頑張りはなんだったんだろうと思うくらい、私なしで2人はちゃんと生活できていた。

寂しがる私のために、毎晩夫がテレビ電話をかけてくれた。夜19時頃、お互いに夕飯を食べ終わったくらいの時間帯。
私は2人の顔を見て声を聞けるこの時間を楽しみにしていたけれど、長男は終始塩対応だった。夫が私と話し込んでしまうのを嫌がって、「早くパパ遊ぼうよ」と電話を切りたがる。
目の前にいる人に甘えることに必死で、画面越しの母には興味を失っていた。

少し寂しかったし、拍子抜けはしたものの、とても頼もしくもあった。長男が寂しい思いをしていないと思うと、心穏やかに入院生活を送れた。
私がいなくても2人はなんとかなるという事実にとても安心させてもらったし、赤子2人を連れ帰ってからの、産後の生活の希望にもなった。

そして結局、長男が寂しがることなく、体調も崩さず、無事に2人は40日間を完走してくれた。
家での様子は夫から聞いた話でしか知らないけれど、2人きりだと今までになく、こっぴどく長男を叱るシーンや、本気で喧嘩することもあったらしい。家事育児仕事を一身に担って夫は疲れ切っていたけれど、この40日間で確実に2人の仲は深まった。

〇〇〇

この時から始まった長男の「パパっ子」は1年経った今も続いている。遊びも寝かしつけも、自らパパを指名する。退院後の数か月は、私に対してどこかよそよそしさすら感じた。
双子誕生から半年以上経ってからは、「かかがいい!」と私に甘えることも増えてきたけれど、いまだにパパが優勢だ。

入院中は長男が寂しがっていないことに安堵していたけれど、今思い返すと見え方は少し異なる。
2年半、ずっと私のほうが長男といる時間は長かったのに、この入院期間で夫との立場は一気に逆転した。何食わぬ顔をしていたけれど、2歳半の子にとって、この40日間が与えた影響はとても大きかったのだと、改めて感じる。

母不在の寂しさは表に出てこなかったけれど、きっと、いつも一緒にいた人が急にいなくなる不安はあったのだろう。揺らいだ信頼関係の修復には、一緒にいなかった時間よりもずっと長い時間がかかった。

私が想像していた以上に、2歳はたくましかった。そして思考は柔軟で、強かに「誰が自分に1番向きあってくれているのか」見定めている。
子どもは素直だけど、単純じゃない。幼いけど、ちゃんと分かっているのだ。

○○○

張り止め薬の副作用にはだんだん身体が慣れ、2日目にはゆっくり文字が書けるようになり、1週間経つと震えなくなった。
動悸もおさまったけれど、同室の人の生活音やいびきで寝れない夜は続いた。
そして点滴の刺しこみ口はずっと痛くて、病院食は物足りなくて、家族に会いたくて、早く家に帰りたかった。

でも、病室のベッドの上で、窓ごしに青空に浮かぶ飛行機を眺めたり、積読になっていた本を読み漁ったり、動画をみながら子どもの保育園グッズの刺繍をしたりする時間は、悪くなかった。
久しぶりの、長男が最優先ではない生活。お腹の中の2人と、自分の健康を守るためだけの日々。少し寂しくて、不安で心細くて、でもゆったりと穏やかな40日間だった。

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