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生活、違和感、「自分」――2022年と2023年のあわいで

2022年もまもなく終わり。年末になると、新年の目標を立てる人は多い。一年というひとつの時間を区切りにして、これから迎える新年を心機一転違ったものにしたいという気持ちなのだろう。今回は2022年最後のnote記事として、新年に向けてのささやかな目標と言うか、2023年の自分の心の持ちようをつらつらと書いていこうと思う。


さて、これから新年を向かえるというのに、私は来たる新年に、そして少し先の未来に、若干の不安を抱いている。SNS疲れ、というのだろうか。いや別に「疲れ」ではないのだが、SNS上でたまたま目に入ってくるあれこれに辟易している自分がいて、また今後そういうノイズみたいな情報がどんどん増えていってそのたびに目に入ってくるのだろうなと思うとどうにも不穏な気持ちになってくるのだ。

そこでは何というか言葉が、その内実関係なしに飛び交っている。日ごとに新たなトレンドが生まれ、新たなカテゴリーが生まれ、「常識」が生まれ、新たな言葉が生まれている。このような言葉、物事、現象等々をまとめて「記号的なもの」と呼んでおく。

さまざまなニュースが、それがどのようなことを伝えていて何が問題とされているかを考えるまもなく「見出し」という記号に還元され、さまざまな人の生き方や人生、その実存がカテゴリーやラベルのもとに還元される。タピオカドリンク(ちょっと古い?)は、タピオカの食感やドリンクの味うんぬんよりもまず、「タピオカドリンク」という記号として味わわれ、消費されていく。そして、記号的なものに対する反応もまた、どこからか借りてきたかのような記号的なものになっていく。

日々目まぐるしく状況が変化していく時代にあって、合理的かつ円滑に物事を進めてるにあたって内実の伴わないような記号的なものに頼ることは余計なことを考えなくていいので負担がなく、楽でいい。だからついつい、記号的なものの力を借りてしまう。だが、記号的なものによって安心を得る人もいれば、また他方でそれによって振り回される人も多くいる。私も含めて。

そして、このような記号的なものがその内実などお構いなしにに飛び交っていることには不安を感じずにはいられない。例えば、友人がわたしにくれた心強い励ましや優しいことばは、どこかから借りてきた言葉なのではないか、本当に心からそう言ってくれているのだろうかという不安。実情をまったく捉えていないままに発せられる悪意のある言葉に対する不安。あの料理の味は果たしてわたしがそう感じたように美味しいものなのだろうかという不安。記号的なものが氾濫するなかにあって、いま誰を、何を信じたら良いのかが分からなくなる。このようなひとは実は多いのではないだろうか。

誰を、何を、信じたら良いのか。

そんなとき、他ならぬ自分の存在が置いてけぼりになっていないだろうか、と思うのである。

何かを不信に思っている自分、なにかに焦燥している自分がいることに気づけているのだろうか。同様に信じることができるだけの資格を持ち、その対象であるはずの自分がいることに。

先ほど、「新年を迎えるにあたって来年の自分の心の持ちようを書いていこうと思う」と宣言したが、心の持ちよう以前にこの「自分」とは一体なんだろうか。この「自分」とは誰なのだろうか。この「自分」がよくわかっていないままに、自分の心の持ちようを決定するということはできるのだろうか。



上で挙げたような状況において、わたしは絶えず他の誰かを、他の何かを気にしている。「あの人はこんな事を言っていた。それは正しいことだと思う。」「今はこれが流行っているらしい。だからこれを持っていると良い。」などと思うとき、わたしはその誰かについては知っているし、その何かについても知っている。だが、「自分」のことはどうか。

「自分」はいつも「自分」なのだろうか。それとも、不定形だったり複数的だったりするのだろうか。もしそうだとして、たとえば朝起きたときの自分がほんとうの「自分」だろうか。それとも昼の自分?もしくは夜の自分が?家で一人のんびり過ごしているときの自分がそうだろうか、それとも友人や恋人と一緒にいるときの自分がそうなのだろうか。あるいは、喜んでいるときの自分がそうだろうか、それとも怒っているとき、哀しいとき、楽しんでいるときの自分がほんとうの自分なのだろうか。いったいいつ、どこで、ひとりであるいは複数人で、なにをしているときの自分が「自分」なのだろうか。

考えるとキリがないので、方向を変えてみることにする。

では、良くも悪くも「自分」がもっとも出てくるとき、それが現れてくるのはどのようなときだろうか。

ということを考えたときに、それは生活のなかで抱くささいな違和感に気づいたときではないかと思うのだ。

どういうことか。

例えば、友人や同僚など周囲の人たちが誰かに対する悪口や愚痴で盛り上がっていて、あるひとがそれに共感できないとき。当人たちは悪口だと思っていないことを、そのひとは悪口だと感じることで共感できないとき。そのとき、その話題(あるいはその話題を口にする周囲の人たち)に対する違和感が生じている。

例えば、病院で問診票を書くとき、はたまた知り合いから卒業論文でつかうためのアンケートを頼まれたとき、性別欄にある「男性・女性」どちらかに◯をつけないといけないらしいのだが、困ったことにそのひとはどちらにも◯つけることができない、と考える。そのひとは、こういったことを回答しないといけないことに対して、そしてその選択がつねに二択であることに対して違和感をいだく。

例えば、あるひとは朝起きたときにここ最近自分の体がやけに重たく感じ、頭がぼうっとしていることに気づく。エビデンスもなにもないのだけれど、そのひとは
数ヶ月前の自分と比べて体がだるくなっている最近の自分に確実な違和感をおぼえる。

このように違和感は目の前にいる誰かの言動や振る舞いあるいはその誰か自身への違和感、世間的なものとのズレによる違和感、過去の自分との違和感といった様態で様々な場面であらわれる。いずれにしても、このように違和感をおぼえるときに他ならぬ(他のひととは異なるような)この「自分」というのが顔をのぞかせているのではないか。


ところで、そうした違和感がもたらす手触りは心地よいものではない。

その心地悪さ――それを、生活における違和感からくる心地悪さをきわだたせる意味で居心地の悪さと言ってもいいかもしれない――が違和感を生じさせ、「自分」をあらわにする。そうだとすると、その居心地の悪さに対処することで、自分らしさに近づくことができるかもしれない。

では、居心地の悪さに対してはどのように対処することができるだろうか。

まず考えられるのは、居心地の悪さや違和感を不快なものとしてこれを軽減したり取り除く方向へ向かうことだ。そのためにひとはさまざまな手段を講じることができる。

一つには、居心地の悪さそのものから気をそらすこと。本を読んだり、音楽を聞いたり、映画を見たり、運動をしたり、近所を散歩したり、遠くへ旅行に行ったり、美味しいものを食べたり、気の合う友人と遊ぶ…といったように、娯楽のなかに身をひたすこと。そこでは居心地の悪さの原因たる違和感そのものが忘れ去られ、別の何ごとかに気持ちを集中させ、その限りにおいて居心地の悪さから解放される。

他方、居心地の悪さや違和感を抱いているという自覚を持った上で、それを軽減するにはどうすればいいかを考えることもできる。こちらは、その当の居心地の悪さや違和感に一応向かい合っている点で前者とは異なる。その際、自分とは別のなにか、他者の存在が重要になる。誰かに相談して、その誰かの言葉を参考にすることがその例だ。自分と似たような境遇の別の人の話を聞くことで救われたり、そこから居心地の悪さへの解決策が浮かぶかもしれない。


いずれにせよ、ひとは他のもの(物事・者)の助けをかりることで違和感を取り去ることができる。これは対処法としてはごくごく一般的で、しかも現実的で効果的でもある。それは間違いない。

だが、一方で注意も必要だろう。というのも、こうした違和感や居心地の悪さから生じる不安や不快感の存在をはじめからわかっていてそれをうまく利用しようとする他のものが世間には存在するからだ。

うまい誘い文句でいたずらにひとを娯楽へ導いたり、甘くて旨味のある言葉を投げかけることによってひとに束の間の安心感を与えたり、あるいは逆に、そのひとの不安をさらにあおることによってかえって勇気づけたり…。そのなかでは、居心地の悪さによって浮き彫りになった「自分」がかえって覆い隠されてしまうこともある。そうした甘言は、自分が自分であること、つまりは自分らしさにかかわる根本的な問題を引き受けてはくれない。むしろ「自分」をこのわたしに対してうまく隠蔽し、ごまかすことによって「自分」から目を背けさせてすらいる。

先ほど違和感や居心地の悪さを軽減するうえで、誰かに相談することや似たような境遇の人の存在が助けになるかもしれないといったことを書いたが、例えば、自分を世間にあるカテゴリーやラベルに当てはめることで(性格診断とか)安心するというのはあることだろう。それは、違和感をおぼえているのは自分だけではないのだという安心感であり、自分だけが間違っているのではないのだということからくる安堵かもしれない。けれども、「誰かと一緒なんだ、自分は特別ではないのだ」という安心感こそが、”時として”その人から「自分」というものを奪っていることもあり得るのではないだろうか。

だとすると、このような表面的な誘惑に流されないようにすることも一方で必要だ。そのためには地に足をつけ、その居心地の悪さの原因となりそれが生じる場所たる日常の生活をなおも忘れないでいることが大切なのではないか。それによって「自分」を忘れずにいることができ、「自分」に向き合うことができるようになるはずだ。

もちろん、あまりの居心地の悪さのために他のものの助けをかりることは、それ自体何ら悪いものでも間違っているものでもない。むしろ必要である。問題は、その居心地の悪さから生じる不安を利用して、「他のもの」は内実を伴わない表面的な解決を与えてくる場合があるということだ。それは「自分」をあらわにする違和感をなかったことにしようとするが、しかしそれでは違和感の根源的な解消には必ずしもならない。違和感を感じるこの「自分」が置いていかれているからだ。

だから、結局はまたその「自分」の存在が折を見て姿をあらわすだろう。表面的な言葉(とそれを投げかけてくるひと)や物事はたしかに自分を救いこそすれ、一時的なものに過ぎないということもある。そうした言葉や物事やひとに惑わされないようにするには、地に足をつけておく必要がある。

地に足をつけること。それは自分の生活に根ざすことだ。日常生活のなかで生じる違和感を取り去ったり軽減しようとすることにおいて生活そのものを忘却しないこと。生活のうちに在る自分を忘れないでいることは(ときに苦しくも)重要だと思われる。そしてそれは、つまるところ自分で自分に関心を持つことだと言える。


では、自分自身に関心を向けるとして、自分だけに気を配っていればそれでよいのだろうか。これは極端な反論であるが、これには肌感でそうではないと答えることができる。自分自身に関心を持つということは、なにも自分勝手になるということではない。

というのも、自分自身はいつもすでに他のもの(物・者)に関わっているからだ。

話が戻るが、そもそも自分が違和感を抱いたのは、自分とは異なる他の誰か/何か(そこには「いま」の自分とは異なる過去の自分なども含まれるだろう)との関わりにおいてであった。そのうえで、その違和感を他人に譲り渡さないことが大切なのではないかと言いたいのである。

違和感のありよう、そこから生じる自分に対する関心の向けようは、すでに何らかの形で他のものや外的な要因によって規定されていて、そうした逃れられない事実や基底のうえに生じるのであり、そういった事情によって多かれ少なかれ制限を受けている。逆に言うと、そうしたあらかじめの規定性のなかで自己の違和感や関心が生じるのであり、またそのあり方が問われるということだ。

職場に反りが合わない同僚がいて、自分の仕事のスタンスに照らしてぬぐえない違和感を抱いていたとしよう。そこでそのひとはよりよい職場環境をもとめて転職することを考えるかもしれない。この場合、転職することが自分への関心の向けかたとして浮上する。

けれども、それにはリスクが伴うだろう。まずもって転職が容易でないかもしれない。また、自分がその職場をやめてしまうことで、自分が気にかけていた人に迷惑がかかってしまうかもしれない。さらに、経済的なことを考えるとむしろ今の職場にとどまっていたほうが良いかもしれない。こうした理由から転職をためらうことも可能性の一つとしてありえてくる。どのように自分の関心にそえるかは必ずしも自分の意志だけで決定できるものではなく、また自分だけで決定したように思えることであっても必ずどこかで他のもの(物・者)の存在を考慮しているはずなのだ。

このように、違和感が生じ、それが「自分」らしさへ向かう過程のうちには「他のもの」の存在がどうしても関わっている。むしろ、自分自身が「他のもの」と共にあるからこそ、違和感が生じたり、そこから自分とは何か、自分らしさとは何かという問いが湧き上がってくるのではないだろうか。

そのうえで、何度も言うようにその違和感に自分が向き合うことが大切で、その違和感を安易に他のものに譲り渡さないようにすることが必要なのだと私は考える。違和感や居心地の悪さに対して即座に答えを出したり決断することは容易ではない。だからこそ違和感や居心地の悪さを棚上げにしたくなるし、そこから目を背けたくなってしまう。けれども、その違和感は自分を「自分」たらしめている当のものでもあるので、「他のもの」に違和感を預けてしまうと自分が自分でいられる契機をも預けることになる。場合によっては「他のもの」によってこの自分自身を乗っ取られさえするだろう。


違和感の根元は自分自身とつながっている。良くも悪くもこの違和感は自分のものである。

ところが違和感による居心地の悪さを取り払うのに、その原因たる違和感そのものに向き合うことなく根こそぎ引き抜いてしまうことは、その違和感があらわにしていたところの自分自身のあり方を不明瞭にしてしまう。その場合、居心地の悪さは解消されるものの、違和感の根本原因たる自分自身のあり方が不問にされることで違和感が去ったあとも痕跡としてのこり、そこから違和感は折を見て絶えず浮上してくるだろう。

繰り返しになるが、「他のもの」による甘美な誘いに乗ることはそれ自体としては何ら悪いことではない。だがその誘惑が「何も気にすることはない」などと自分に語りかけ、違和感から注意をそらし、それを根こそぎ持っていってしまうとすれば、それは危険なものとなる。こうした危険を回避するためには(それを危険と思うかどうか、それ次第だが)、違和感をもつこの自分に関心を持ってそれをなおも手放さないでいることが必要だ。

自分のあり方が違和感としてあらわになる。それを媒介するものがわれわれが「他のもの」と共に過ごしている日常生活だ。この日常生活のなかに自分と、そして「他のもの」が存在する。それは日常生活を基礎づける事実であり、揺るがないものだ。自分の存在はもちろんのこと、この「他のもの」の存在がなければ、ほかならぬ自分の日常生活は成立しない。だが、「他のもの」と何らかのかたちで親しめなくなるとき、違和感が生じ「自分」があらわになる。別言すると、自分の「自分」らしさがあらわになることにおいて、「他のもの」と馴染めなくなる。そこで、自分は「自分」としてあるために(尾崎豊?)、この「自分」に関心を持つことが望ましくなる(それがこれまで繰り返し書いてきたことだ)。ただしその際、同時に「他のもの」の存在を考慮することも必要だ。それは「他のもの」を慮ることや「他のもの」の目を気にすることでは必ずしもなく、たんに「他のもの」の気配を感じているという程度でもいい。

先に、周囲の人たちが誰かの悪口を言って盛り上がっているが、自分はそのことに共感できないという違和感をおぼえるという例をあげた。このとき、その違和感をおぼえているそのひとは、1. 場の空気を壊さない程度に「他のもの」(この場合は周囲の人たち)を考慮したうえで「自分」に関心を向け、その話題に乗らない、首をかしげるといったかたちで「自分」を貫くこともできれば、2. 場の空気を壊してでも(つまり、場の空気を壊すというかたちで「他のもの」を考慮にいれたうえで)その発言者に抗議することによって自分を貫くこともできる。

また、あるひとが自身の健康というのを考えるときに、1. 医学や科学の知見という「他のもの」を考慮した上でそれに従って病院へ行くとか、食生活を改善するとか、運動するといったかたちで自分に関心ををむけることもできれば、あるいは、2. 医学や科学の知見という「他のもの」に従わないという考慮をして、自分が食べたいものを食べるとか、身体に負荷のかかる運動を続けるといったかたちで自分に関心を向けることもできるはずなのだ。


はじめに戻ろう。私はさまざまな記号的なものが飛び交っていることに不穏さを感じていたのだった。内実を抜き取られてしまったような、誰のものでもなく何ものでもないようなものが飛び交っていることに。そうした記号的なものは、果たしてこの自分の存在をまるごとやさしくつつみこんでくれるものなのだろうか。

ところでこの不穏さは、私にとってひとつの違和感なのではないか。

記号的なもののいくつかは、ものによっては自分に似合うものでもあるかもしれない。だが、それは自分にぴったりとフィットするものなのだろうか。また、記号的なものはある事象のすべてを適切かつ的確に示すことができているのだろうか。そのようにして、記号的なもの――カテゴリーやラベル、指標、数値、見出し、トレンドなどなど――によって、自分ががんじがらめになっていたり、自分の存在がこの自分自身から忘れ去られるなどということになっていないだろうか。そして「記号的なもの」はほとんどすべて「他のもの」から与えられる。そうした諸々の「記号的なもの」との関わりにおいて「自分」の可能性を殺していないだろうか。この違和感は、記号的なものという「他のもの」による「自分」の可能性への危機に際して生じているのではないだろうか。

「自分」の可能性、あるいは「自分らしさ」とは、言わば自分が「他のもの」ではない「自分」を生きることであって、「自分」を生かすものである。その可能性とは「自分」が生きる場である日常生活における可能性であり、この生活に根ざし、生活の規定性のなかで他のものとの距離をうまく勘案しながら、「自分」へといかに関心を向けられるかどうかの可能性である。そうすることで、記号的なものに惑わされることなく、他のものに自我を預け過ぎない程度に「自分」を置き去りにせずに自分で「自分」に関わることができるのではないだろうか。

話が当初の方向からだいぶ逸れてしまった。結果として、当初書こうと思っていた新年に向けての自分の目標や心の持ちようといったことは具体的に思いつくに至らなかった。

しかしながら、この目標を立て、ある気持ちのもとで新年を過ごそうとしている他ならぬこの私が「自分」へと至る道筋が、以上のようなかたちで確保できたのではないだろうか。「自分」へと至ること。それは、「自分」へと関心を向けること。その「自分」があってはじめて、「自分」の目標なり、心の持ちようといった「自分」の可能性、「自分」を生かすことのできる可能性にようやく近づくことができるようになるのではないか。

こうして、2023年心機一転気持ちを新たに、ということにはいかなくなってしまった。けれども、私はこの2022年の年末と地続きになった2023年を、不穏さを感じながらも、しかしある種の穏やかさと確かさを感じながら過ごしていけると思う。

年が明けても、いつもどおり生活は続いていく。自分の基盤たる生活に根ざして、自分に関心を持ち続けること。敢えて言うとしたらこれが、ささやかな2023年の目標になるだろうか。それは目標以前の目標である。未然の、手前の目標――。





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最後にささやかな感謝を。このnoteは他人事ではなく自分事として書かれたものですが、ある匿名の2名の方がこれまで書き綴ってこられたことに多くを負っています。そこではその方の生活の記録が、そのときどきの思いや気持ちが綴られており、私はそれらの記録から少しずつ何かを得ていたように思います。届くか分かりませんがこの場でお礼を言わせてください。ありがとうございました(そして勝手に参考してしまってすみません)。このnoteでは「自分」らしさなるものを何か既存のカテゴリーや適性などから遡って考えるのではなく、日々の生活のなかに根ざして考えていくということを試みたのですが、このような結論に至る過程でそのお二方が書いてこられたことから学ぶことが大いにありました。本来はそのようにして参考にしたものは何らかのかたちで提示すべきだと思うのですが、それらはその人の生活の記録でもあって私的なものであるので、このようなかたちで言及するにとどめさせていただきます。

最後に、2023年が良い年になりますように。


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