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いつ大人になるんだろうな、こいつ

前回のオードリーのオールナイトニッポン(2022/5/28放送分)の若林さんのフリートークがあまりに刺さりすぎた。

トーク内容は大体こんな感じ。
要点に絞って随分と割愛しているので、興味があったら是非radikoで聴いてみてほしい。

奥さんと娘さんが奥さんの実家に帰り、現在家では一人で過ごしていると言う若林さん。

そんな中、丸一日オフの日があったので奥さんや娘がいたら出来ないような「しょうがねえ日」を過ごそうと意気込む。

昼過ぎまで寝て、起きたらコンビニで好きなものを買い、良い天気なのに部屋に引き篭もり一人でゲームをする。

apexやストリートファイターをやって夕方になったくらいで、ふと「これは本当に楽しいのか?」 「大学を出て23歳で会社員になって43歳を迎えていたら、こんなことやってないんじゃないか?」「ラジオの話のネタ欲しさでやってるだけじゃないか?」と考えてしまう。

強烈な罪悪感に襲われ、レンタサイクルであてもなく出かける若林さん。

そこで相席スタートの山添さんがあそこまで熱狂するパチンコというものを一度やってみたいと思いパチンコ屋に入る。

2,000円使ったあと、周りにいた当たった外れたで大はしゃぎしている大学生くらいの若者グループが輝いて見えてしまい、「俺は本当に楽しめているのか?」と考えてしまい、切なくなってパチンコ屋を出る。

その後どこに行っても街中の人が笑顔で輝いて見えて、切なくなってしまう。蕎麦屋にいた老夫婦、楽しげに会話しながら歩く人たち、ドトールで会話していた新入社員と先輩社員。

どこに行っても罪悪感や切なさを感じてしまう若林さん。レンタサイクルを返して電車で帰ることにする。

帰り道、駅のエレベーターでガラスに映った上下ジャージ姿の自分の姿を見て「いつ大人になるんだろうな、こいつ」と思ったという。

その後降りた駅で駅員に随分激しいクレームをぶつけている人を見て「今俺にこんな熱くなれることはあるのか?」と思ったらしい。

なんというか色々と考えることがあり過ぎて刺さりまくった。

せっかくなので取り留めもなく、トークを聴いて派生して思ったことや自分のしょうがねえ考えを書いてみたくなった。

「いつ大人になるんだろうな、こいつ」

あと2ヶ月で28歳になる私にもこの言葉は本当に刺さった。

どうしても意識してしまう節目がある。

私の母親が私を27歳で産んでいることだ。

もう母が母になった年齢を通り越している。

これからずっと、私と同い年だった頃の母親は既に子育てをしているのだ。

今自由な生活を謳歌している私と、きっと1歳児の子育てで手一杯だっただろう母親が同い年。これはもう母親のことを大谷翔平のように果てしなく遠くの人だと思ってしまう。

私は先日有給休暇でボウリングを一人で12ゲームもやった。土曜日には友人と一日中桃鉄をやっていた。先週は野球を1週間で2試合観に行った。

5月は石川県に旅行に行った。4月も仙台に行ったし、なんなら今週末も名古屋へ行く。来週末もゴルフの予定が…

「いや、最高だなここ最近の生活」と思う気持ちと、「本当にこれほどまで自由気ままで良いのか」という気持ちが同居している。

でも間違いない、これが私がずーっと長きにわたり夢見ていた独身貴族の暮らしだったのだ。

私は生まれてこのかた自分の子供が欲しいと思えたことが一度もない。

こう思うようになったのにはいろんな理由があるけれど、そもそも物心ついた頃には「欲しくない」と思っていた気がして、そこから先の理由たちは後付けなのかもしれない。

一番最初にこう思ったきっかけはたぶん「親を見て子育ては大変そうだと思ったから」であり、1歳の私を抱える母と同い年になった今、「本当に凄まじい苦労があったんだろうな」と改めて思うのである。

28歳の母親は本当に自分が楽しいと思えるような時間を過ごせていたのだろうか、ちゃんと息抜きできていたのだろうか。私は心配になる。

日本社会は母の日あたりの神話にうまいことまとめて、母親に対する精神的負担の掛け方が尋常じゃないのではないか。

子孫を残すのは生物の本能だという。でも本当にそうなのだろうかと、自分自身の存在をもって疑ってしまう。

私は子どもが持っている無限の可能性を、自分の手で着実に狭めていくのが怖いし嫌なのだ。

「なんでもいい」というのは難しいのだけど、じゃあどんな道筋を示してあげたら良いのだろう。

「ずべこべ言わず学業の成績を良くすること」「何かあった時困らないように、とりあえずあてもなく上を目指すこと」だけは絶対に道筋にしてやってたまるかと今は思っている。

加えてもし自分の苦手なことが、そのまま子供に遺伝した時、正気を保っていられるだろうかというのもある。

私は得意なことと苦手なことがかなりはっきりしている。

今は大人だからどうしようもないほど苦手なことはほとんどやらなくて良い立場になっているけど、そうはいかない幼少期は苦労もそれなりに多かった気がするし、親にも悲しい思いをさせたこともあると思う。

例えば私は相当手先が不器用なんだけど、もし子供も同じように不器用だったら膝から崩れ落ちてしまうかもしれない。

私と同じように綺麗な字を書くのが苦手で、先生に字のことで叱られていたら、申し訳なくてたまらないかもしれない。

子供の運動会で順位をつけないことが一時波紋を呼んでいたけど、あれは実は子供のためというより、むしろ親の自尊心を守るためではないか、なんて変な目も向けてしまう。

親ガチャなんて言葉が流行る前からずっと、親ガチャの刃が自分を向き続けていたのだ。

なんだかんだ今の自分の人生には本当に満足をしている。けれど、本当に幸運と奇跡の連続でここまで来れたのだとも思っている。

これがもし子ども時代に戻って最初からやりなおしだと言われたらぞっとするので、なかなか前向きになれない。

でも最近、もし私が昔からずっと普通に子供や家庭が欲しいと思うような価値観を持っていたら、一体どんな今を過ごしているのだろうかと考えることがある。

今人生の選択肢を選ぶときに、強烈かつしきりにここにぶつかってしまうからだ。

その価値観を持った世界線の私は、27歳で既に結婚をしているのだろうか。子どもがいたりするのだろうか。

コンビニ弁当なんて買わず、ちゃんとスーパーで食材を買い、手料理を作っていたりするのだろうか。野球観戦や飲み会の回数が減る代わりに、超最新家電が家にあったりするのだろうか。

そこまでは行かなくても普通に交際相手がいるのだろうか。

それとも異性の知り合いにアタックしては失敗し、大切な友達たちを失っているのだろうか。コミュニティ内で変な噂を流されているのだろうか。

人を困らせたくないなど言ってられないのだろうか。それが原因で疎遠になってしまうコミュニティも出てきているのだろうか。

それは嫌だからと、真新しい関係を探すためマッチングアプリに精を出しているのだろうか。

今の世界線ではマッチングアプリは人間不信になりそうだからとやっていないけど、そんなこと言ってられないのだろうか。

らしくない絵文字や顔文字、!をたくさん使ったメッセージを送り、別人格の自分を創り出しているのだろうか。

そこではうまく行っているのだろうか、連戦連敗なのだろうか。

偽りの自分が否定され続けるなんて就活の時を思い出して憂鬱になっているのだろうか。

周りの同世代が着実に身を固めていくことに、今とは比べ物にならないほどの焦りを感じているのだろうか。

「結婚式費用や将来の家庭がない分は贅沢できるから」と雑にお金を使っている今と違って、将来を見据えて一生懸命貯金やお金の管理をしているのだろうか。その分オフの遊び方が今よりは淡白なのだろうか。

友達と遊ぶ時間は今より短いのだろうか。

彼女的な人がいる代わりに友達が今より少ないのだろうか。急に旅行や遊びに誘われても、なかなか乗れないのだろうか。

それとも今と同じくらい優先順を娯楽に置いてしまって、愛想を尽かされるのだろうか。

結局のところ価値観が違ったとて、今とは違う欲求不満を抱える私がそこにはいるだけなのだろうか。

これから急に価値観ががらりと変わった時、自分はちゃんと行動や考えを改められるだろうか。

この世界線の自分を想像した時、プロポーズなんてみな宇宙へ飛び立ってるくらい凄いことをやっているように見えた。それはもう尊敬の念がすごい。

多分あっちの世界でしか見えないこともあれば、こっちの世界でしか見えないこともある。互いにそれぞれでしか手にできないものがある。

きっとそれぞれの良さがあって、都合良く良いとこ取りなんてのはできない。

競馬で全部の馬に賭ける人はいない。いかに全てが魅力的に見えようが、何かを切り捨て選択をしなければならない。

これは人生に置き換えると、何に伴う不都合をより受け入れられるかという話なのかもしれない。

別に結婚/家庭に限らず、一見羨ましいと思うことの裏側に必ずそれとは表裏一体のデメリットが潜んでいる気がしてきた。

手に入りそうにない夢は必要以上に大きく見える。多分現実を知ると、自分で勝手に果てしなく高く上げたハードルとのギャップにがっかりしてしまうほどに。

逆に叶ってしまった夢は、その先に転がっているリアルな現実たちを見ることになり、来世ではここに必要以上の夢は持てないだろうなとなってしまう。

例えばある程度の学歴を手にした私は子供に「高学歴になれば人生が変わるよ」風の教育をする気は起こらない。

だからこんな拠り所のない世界で、敢えて現実を知らず「きっと素晴らしく夢のある世界なのだろう」「手にすれば人生変わるのだろう」と崇拝の対象にし続ける分野があることは、ある種幸せなことかもしれない。

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