刀剣は武器であり美術品である

大阪歴史博物の
特別展「埋忠〈UMETADA〉桃山刀剣界の雄」
に行ってきた。

お目当ては、三十年以上展示のなかった個人蔵の刀、
山伏国広だ。
正式名称は
太刀 銘 日州古屋之住国広山伏之時作之 天正十二年二月彼岸
太刀主日向国住飯田新七良藤原祐安

私はゲーム刀剣乱舞を始めて五年になるまあまあ古参の部類のプレイヤーだが、歴史に詳しくなく、刀にも詳しくない。
それでもここ五年で、明らかに博物館に足を運ぶ頻度は高くなった。
刀剣を見るために泊まりがけで博物館遠征をしたこともあり、自分なりに刀剣を愛している。
そんな私の素人目線での山伏国広の感想だ。

世の中には様々な美というものがある。
刀剣にもそれは適応される。
刀剣の美は、たとえば力強さ、荒々しい武器としての美。

山伏国広は、武器でありながら武器としての美しさが適用されない。
完全無欠の美術品だと思った。

「戦闘で振るわれたことがない」という事前情報を知っているからそう思うのかもしれない。
しかし、あまりにもそこにある刀剣は、
「大事にされ」「語り継がれてきた」「宝物」だった。

刀身のまったく曇りのない艶やかで煌めいた美しさ。
まるでつい先ほど打たれたばかりのような、真新しささえ感じる。
完全なる「うぶ」を感じる。
使われていない、まっさらな美しさ。

なかごの錆びた黒色がなければ、到底何百年前に打たれた刀剣だとは思えない。
まるで新雪のような清らかな美しさを山伏国広は持っていた。

深く彫られた刀身の表の武運長久の文字、そこに一点の錆も曇りもない。
大事に大事に丁寧に手入れして保管していこうという気概を感じる。
平成の間、一度も展示がなかったことも頷ける。
門外不出であったからこそ保たれた美なのだ。

裏に彫られた不動明王の姿の、なんと繊細なことか。
鉄に刻まれたとは思えない。紙に筆で描いたとしても、あそこまで細かに描けるのだろうか?
刀身としての美術品の中に、更に刻まれる美術品。
何種類もの美がそこにあった。

これほどの品を、長く保ち続けてくれた持ち主に感謝。
そして今回、展示してくれたことに感謝。
これからもこの美を受け継いで大切にしてほしい。
心から願う。

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