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MARMALADE

赤いコンバーチブルは、青い空や青い海が、よく似合う。

さえない毎日、ってフレーズはよく聞くし、実際に俺はさえないんだけど。今朝の上司の卑屈な表情と、「おまえ、まだ仕事が分かってないな」とか言う、つまらなくて、ありふれた皮肉のフレーズを聞いて、さえないよな、と思った。みんな、さえない。

なんか、さえたことがしたいと思った時に、消費したい衝動って、これなんだろう。征服欲だろうか。

欲しい服は、本当に欲しいのかわからない。俺の征服欲は、明日の朝食のためのクロワッサンに姿を変えた。

久しぶりに、海に行きたい。俺のあのコンバーチブルで、加奈とマークと。

赤いコンバーチブルを欲しいと思ったのは、ラブラドールレトリバーの真っ黒に似合うと思ったからだ。真っ黒い大型犬、名前はマークだ。加奈と同居を始めた時に絶妙なタイミングで、友人から譲り受けたんだ。

マークは、まるで俺たちの子供のように手のかかる可愛いヤツだ。マークは人にじゃれつくのが好きなんだ。一度、加奈の髪に絡み付いて、大騒ぎしながらほどいたことがあった。

そうだ。明日、海行こう。

俺は渋谷の谷底をはや足ですり抜けて、井の頭線に乗った。加奈とマークが待ってる古い家。小さな庭には紫陽花の樹が植わってる。マークの 犬小屋はパプリカみたいな赤い色だ。

井の頭公園と三鷹台の真ん中あたりにある俺の家まで走る。じわりと汗が出て、そのうちぽたぽたと垂れた。

部屋の扉を開けると、あまい柑橘の香りがする。「いま、マーマレード作ってるよ。」加奈はけろりとした顔で言う。いつも加奈は疲れてないみたいに、家事をする。

始めの頃は、加奈だって仕事をして疲れてるだろうと、申し訳ない気持ちで、俺はひたすらオロオロしていた。加奈はそんな俺を見て笑い飛ばした。

「私の家事は、ストレス解消みたいなものだから、気にしないで」その時もけろりとそう言った。

それからは、いつだって部屋はきれいだ。リノベーション的なインテリアを、窓際に並べられたキャンドルがセピア色に染めてる。ソファに並ぶ夏用のリネンのクッションは洗いたてで、さらりとした感触とオーガニックハーブの柔軟剤の香りが心地よい。

窓の向こうでマークが俺を見つけ、全力で尻尾を振る。ぶるんぶるんと音が聞こえてきそうだ。暗闇の中で、真っ黒いマークの目玉だけがくるくる動いてる。窓を開けて、マークを部屋に入れてやる。マークは「お帰り」と言うように大きな声で一つ吠えた。

加奈は、俺をシュウと呼び、犬をマークと呼ぶ。加奈は、犬のマークと俺を兄弟だと思ってるんじゃないか。マーク、シュウって呼ばれると余計にそう思う。加奈に呼ばれると、俺もマークも並んでキッチンへ行く。一人と一匹は、直立とお座りで加奈の指示を待つ。

「今日さ、シュウの実家から夏蜜柑がたくさん送られて来たよ。だから、夏蜜柑のマーマレードを作ったんだ。」

銅のなべに艶やかな黄色のマーマレードが、たっぷりとできている。俺はさっきテーブルに置いたクロワッサンを指差すと、「あした、海に持って行こう」と言った。

加奈は「えっ、海?」と驚いた顔をして「久しぶりだねー、春以来だねー」と笑顔を見せた。「なんだかわからないけど、楽しそうだねー」と言いたげに、マークは俺に飛びつくと顔をべろんと舐めた。加奈がクラッカーにマーマレードを乗せて、振り返る。俺にくれるのかと思ったら、「マーク」と呼んだ。マークは、シャリシャリと音を立ててクラッカーを食べた。

俺は、青い海と大きな空と赤いコンバーチブルと笑ってる加奈とマーク、それに俺、それだけの情景が脳ミソ一杯に広がって、明日を思うと嬉しくって、ひたすら寝た。加奈を抱きしめて、ひたすら寝た。

曇天。

「夕方までは降らないって予報だよ」加奈は笑って、バスケットを開く。クロワッサンも、クラッカーも、生ハムも、クリームチーズも、マーマレードも、みんな入ってる。マークは出かける気まんまんで、赤いバンダナを首に巻いてる。「行こ!行こ!」

鉛色の海が白い波を立てる。風も強い。マークはお構いなしに、波しぶきと戯れてる。波打ち際で、加奈と二人でマークを見守る。

「こういうのいいよね」「いいよね」俺は絵に描いたような情景に、完全に酔った。これで青空だったらなと、思いながら加奈を見た。加奈の横顔は、予想を超える可愛いさだった。こんなに可愛いかったっけ?

加奈は砂まみれのマークを見て、声をあげて笑った。

加奈はちょうどいいバランスで、マーマレードとクリームチーズをクラッカーにのせると、俺の口に入れる。マーマレードの香りが景色と混ざる。潮風とマーマレードはよく似合う。

真っ黒なマークが弾丸のように、俺たちめがけて駆けてくる。加奈は同じように、クラッカーをマークの口に入れる。マークと俺はまるで兄弟のように、シャリシャリとクラッカーを食べる。

「あたしさー」加奈は、唐突にやや素っ頓狂な声を出した。きれいに伸びた加奈の脚は、向かってくる海風に倒されないように筋肉が張り、よけいに魅力的だった。

「シュウと別れたい」

波音にかき消されて聞こえなきゃいいのに。それは、はっきり聞こえた。

「なんでだよ」

そりゃそうだろ。こんなに楽しい時間の中にいるんだろ。なんでだよ。

加奈は、「シュウより大切な人が出来た」と風にあおられた髪を、耳にかけた。

加奈の細い指先は、頼りなさそうに何度も髪を耳にかける。昨日のマーマレードを作った加奈の指は、いま、風にあおられた髪をもて遊ぶように絡める。

いつだったか、いや、考えてみると割と頻繁に加奈が話してくれた、変な男の話。

「その人、彼女が何人もいるの。どのコも素敵な彼女でね、いつも違うコと歩いてるの。女の子泣かせちゃダメじゃないって言うと、『僕は女の子を幸せにしてるんだよ』って返してくるの。『僕とデートしてみんな幸せじゃない?だからいいでしょ?』って真顔で言うの。あんまりその笑顔が素敵だから、この笑顔は女の子を幸せにするなって思わせるの」

その変な男が加奈の元カレだってことを、俺はいま知った。そして、久しぶりに再会した変な男を、改めて好きだと思ったことも、いま知った。

くつがえりそうもないこと。そんなものはいくつだってある。

生まれた時代だとか、天気だとか、今朝ひっくり返ししまったマークのミルクとか、うまく例え話が浮かばないが。とにかく、加奈の、いまの考えをくつがえすことは、俺にはできない。例えくつがえしたとして、みんな幸せなのかな。

マークは加奈のいなくなった毎日をどう思うかとか、マークの散歩のために帰宅を早めることになるなとか、割と未来のことを俺は考えてる。

加奈がいなくなった日常をリアルに想像することだけが、うまくできない。

「俺たち、そんなに軽かったか」

加奈は首を振る。

「そんなに軽くない。ただ、相手が重かった」

俺よりも。マークよりも。

ちぎったような小さな雲が、見る見るうちに空の彼方に流されていった。

「彼はどこに住んでるの?」

加奈は穏やかな表情をして、

「中央線沿線」そう言ってごまかした。

中野かなと思ったけど、日野だな、その男はきっと郊外型だ。女のプライドをかき回して、プライドを煽る。自作自演の郊外型だ。絶対にそうだ。

「嫌な事があったら戻って来いよ」なんて言えるほど、俺は懐が広くない。

加奈は楽になったのか、マークと戯れる。

俺の背後から、一羽のカモメが飛び立った。

カモメは空に翼を広げて海の上に出ると、あっという間に小さな影になった。




すーっと、海風が俺たちを包むように、通り抜けた。

#海

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