何かを生み出す行為

最近、必要に駆られて、人間の生産と消費について、哲学の観点から考察している文章を読んだ。

バートランド・ラッセルや、シャンタル・ムフ、アントニオ・グラムシなどと一部共通する部分があり(もっとも、読んだ対象が近代にあることも影響しているし、ヨーロッパ圏で宗教、特にキリスト教を下地にしているからであろうが)、非常に学びになった。

考えると、これらの人物の著作を読むという行為が必要になる一方で、他方では書かれた時代背景、経歴、著作およびその支障たる別な哲学者の思想を理解しているかどうか、で全く受け取り方が変わってきてしまうという問題が生じるということとがわかった。


情報を得て、どのように解釈するかはその読み手に委ねられる。
しかし、著者の考えを性格に把握せず、一方的に判断するということ、さらに日本独特の「空気を読む」ことで、それを言葉にしないこと。これらだけで正確な把握が阻害されてしまう。
全く嘆かわしいことである。


従前から、一億総白痴化について書いている。
それだけ、読み手側の読解力が低下している。むしろ、それ自体を放棄するということが当たり前になってきているのだ。
本来、人間が怠惰であるという証左でもあるのだが。

何と無くニュースを見ていても、非常に短いひらがなの芸能人が多く誕生しているという記事を見て、むしろこの意を強くしたし、某SNSでフォロワーが何人で、ということに注目している観点からもやはり違和感は拭えないのである。


しかし、彼らは何かを生み出している。
ダンスなり、短い文字で人間の心情に訴えかける(その内容が心理的に正負のどちらに動くかは不明)ことをしている。
その観点では、私は日々サボってまるで高等な文章を書いているかのように、しかし中身が取りとめなく雑記となっている点で、私は相対的に劣位である。
FacebookがまだThe Facebookだった頃に、彼女がいるのかどうかで人的ネットワークを可視化したのと同様に、またそれが(人的)資産であるのと錯覚させることに成功したのとも同様に、人間の本質をついているのだと思う。

そういうサービスを作り上げることもできず、ただよくわからないことをつらつらと書いているうちは、成功に近づくこともないように思い、私のそもそもの根本的な考え方を大きく変えなくてはいけないのだと感じた。

人間として生(性)が死と同一であるのだから、この考えも正しいのだろう。全く私が努力不足である。

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