昨今のいじめ問題を見て思う

いじめ問題は、SNSの影響によって明るみになるまでのスピードが早まった。その功罪、尤も功の部分は少なく、罪の部分のみがクローズアップされる現状に大変な違和感を感じる。

なお、先に断っておくがいじめを発端とした諸問題を容認したり許容したりしたものではない


功の部分は、被害者の声が"世間"を通して、拡散されることにある。
個別の背景、心情、具体的被害、結果……。これらが部分的にマスクされつつも、公表されることにそれなりの意味はあるのかもしれない。

しかしあえてその罪の部分を強調したい。
結果的に、加害者に対する新たな(ネット上の)いじめを助長し、被害者の問題をメディアが更に強調し、ありもしない事実について書きたてるからである。


本来、いじめの問題は被害者と加害者、関係機関(学校なのか会社なのか、それ以外か)の問題であって、さらに言えば関係機関が適切に対処したかどうかは、この当事者、関係機関に属する人以外に関して、本来は全く関係のない話である。

世の中に問う、尊い行為であることには違いない。
しかしそれが近視眼的になってはいけない。メディアで告発することとは、結果的にメディアを利することにあって、第二、第三の告発と続き、とどまることを知らない。

さらにそのメディアが本当に正しい情報を伝えたかは、我々からは理解することが出来ない。一方的な取材でも、その人情について書くことで、むしろ私が書いたような論は全くの筋違いである、と考える方が多いだろう。

これは我が国固有の問題ではなく、諸外国でも見られる。
例えば、米国の2001年同時多発テロから、イラク戦争が始まった(さらに息子ブッシュの支持率も急激に回復した)のが記憶にも新しい。
その行為が正しかったかどうかは、後から見れば誤っているとも一部で論じられるが、それもまだ20年前の話であるから、現状で結論を出すには早すぎること考慮すべきである。

また、メディアについて批判をするのではなく、我々の興味関心についても同様である。
どれだけ硬派な芯の通ったメディアであっても、(特に[小児]性)犯罪被害の記事ほどアクセスされるものはない。これは我々の性であるともいえる。
同情、憐憫による怒りの心情を見知らぬ(本当は画面の先に存在するのに、それを我々が意識できない)第三者にぶつけることは、一種のカタルシス。政権批判も同様である。


もう少し、冷静に。そして自分のすべきことをすべきである。

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