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「国籍」が個人の価値観・思想の裏打ちとして在る意味~中村一成「ルポ 思想としての朝鮮籍」(岩波書店)


2017年1月刊。

この著作のことは刊行当時から知ってはいたものの特に読むこともなかったのだが、先日、ツイッター(X)でのある方とのちょっとしたやり取りから読んでみることにした。著者「なかむらいるそん」さんは、父が日本人・母が在日コリアン2世で自らも「在日コリアン3世」として生きているフリージャーナリスト。

冒頭で著者も解説しているように、ここで言う「朝鮮籍」は朝鮮民主主義人民共和国(以下北朝鮮)の国籍ではない。1910年日韓併合からの植民地支配時代には「日本人」とされていた当時200万人以上の在日朝鮮人は、1945年8月15日の日本敗戦により「日本人ではなくなった」。しかしGHQ占領統治下での法的地位は曖昧なままで、1947年5月2日(日本国憲法施行前日)に出された「外国人登録令」によって「外国人と見做す」とされたものの、当時、朝鮮半島は米ソによる南北分断統治下にあり未だ主権国家が存在しなかった。そのため日本政府が便宜上在日朝鮮人に付与したのが「朝鮮」という符号・記号である。その後、北朝鮮は「在日朝鮮人は我が共和国の海外公民」と規定するようになるが、それは日本で明確な法的根拠とはならないので、在日コリアンの「朝鮮」籍者とは厳密には「無国籍」状態にある者と言っていい。ちなみに2015年末時点での「朝鮮」籍者は約3万人強で日本に暮らす「特別永住者」の約1割という。

ここで著者が取り上げる6人~作家の高史明(コ・サミョン)氏、組織活動家・歴史研究者の朴鐘鳴(パク・チョンミョン)氏、詩人の鄭仁(チョン・イン)氏、元民族学級講師の朴正恵(パク・チョンヘ)氏、朝鮮人被爆者活動家の李実根(リ・シルグン)氏、作家の金石範(キム・ソクポム)氏~いずれも1920年代半ばから40年代初め頃に生まれ、戦中戦後の激烈な民族差別・迫害を受けながら育ってきた世代である。そこにあるのは言葉の暴力だけではない、警察など国家権力による「生の暴力」での苛烈な差別体験。そうした中から戦後の在日朝鮮人運動に関わり民族性を取り戻すために苦闘してきた歴史は、私もそうした人々の後を生きる者として大いに敬意を表したい・・・などと言う言葉が空々しく響くほどに、それぞれの人生経験は苛烈峻烈であり、その重さに圧倒される。

私は高史明氏が書いた「生きることの意味」を高校生の頃に読んだが、氏がこんなにも激烈な少年青春期を生きて来たことを初めて知った。また、朴鐘鳴氏らの民族教育(朝鮮学校)を守る闘い(1948年阪神教育闘争など)での正に体を張った抵抗と闘争。

このルポの中で特に焦点を当てられるのが1945年に結成された「在日本朝鮮人連盟(朝連)」の49年GHQによる強制解散~その後の「在日朝鮮統一民主戦線(民戦)」結成と当時の日本共産党の武装闘争方針との連携~その中で在日朝鮮人が「闘争の矢面に立たされながら」その後の55年共産党六全協での平和路線への方針転換によって、言わば「朝鮮人が捨て駒のように排除されたこと」など・・・当時の激動と混乱期の日本・朝鮮間で寄れ動く在日コリアンの姿とその葛藤と。そして同年「在日本朝鮮人総聯合会(総連)」結成と北朝鮮との一体化路線~それへの路線対立と「政治と文学」を巡る闘争と分化など、熱く激しい時代の体験が生々しく語られていて、読んでいても非常に重苦しい。

そして、この6人が今も「日本国籍」に帰化することもなく「韓国籍」に切り替えることもなく「朝鮮」籍を固持する理由は、人によって多少の差異はあれど、「元々朝鮮半島はひとつの国でひとつの民族。1960年代以降の日韓国交正常化などの流れに乗って一方の韓国の国籍を選ぶことは、朝鮮半島全体を認めることにはならない。北朝鮮という国家を支持するかどうかはともかく、あくまで「朝鮮」という記号・称号を固守する」ということだろう。特にこの点は作家:金石範氏の意思・思想は明確である。氏は自身を「古典的インターナショナリズムの持ち主」と言い、「無国籍と言うとコスモポリタンみたいと言われるがそこには主体がない。抑圧されない対等の主体があって初めてインターナショナリズムが成立する」と。そして「あくまで統一祖国を求める。実現すればそこの国籍を取る。ただしその時私はもはや民族主義者ではない。それ以降は必要に応じて国籍を放棄するつもりでいる。」という。

私自身は生まれた時から「朝鮮」籍で、30歳過ぎの結婚を機に「韓国籍」に切り替えたが、それは20代の頃のフランスやサイパン旅行での余りに煩雑な事務手続きに懲りたからで、専ら「便宜上の理由」でしかない。おそらく私のように仕事や個人的事由で「韓国籍」に切り替えた人はかなりの数に上るだろうし、そうした者たちが朝鮮半島の平和統一と民族統合を望んでいない訳ではない。現状、「それは夢のまた夢」でしかないような虚しい南北対立が継続どころかますます激化するばかりだが。

「国籍」という、日常生活ではあまり意識することのない「帰属先」が、ある局面ではその人の人生を大きく規定・規制・制限したりもする。私自身は「韓国籍」者でありながらも、大韓民国への帰属意識もなく北朝鮮への帰属意識もなく、ましてや日本への帰属意識もない。敢えて国家という権力構造への帰属を主観的には拒否しながら(現実的には私も様々な法規制の下で生きている)、朝鮮半島だけでなく世界中に拡がる朝鮮民族の末裔の一人としてこれからも神戸の街で生きていく。それがコスモポリタニズムなのかインターナショナリズムなのか、コリアンディアスポラなのか~呼称などどうでもいい。

ちなみに、私は大韓民国の国歌(愛国歌)はメロディは勿論知っているが歌詞をよく知らないので歌えない。しかし北朝鮮の国歌(愛国歌)はなぜか今でも歌える~(*^^*)

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