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京都府立図書館からの帰り道の出来事

instinct

平安神宮の目の前にある京都府立図書館。
調べ物があるとたまに行くことがあります。
蔦屋書店も隣にあったり平安神宮の素晴らしい空気も楽しみの一つですが、この日は調べたかった本が無かった。

というかあったけど1冊しか無かったのであまり参考にならず残念な思いで事務所に帰りました。

歩いての行き帰りの際に、考えていたことが。この日だったか前日にあったある会議でのひと場面。非常に素晴らしい切り返しをした、ある人のことを部下に話していました。
「あの人はすげーぞ、あの場面であの切り返しができるのは只者じゃない」という具合に。
そのことを考えながら歩いていたのですが「やっぱ事務所帰って居たら直接言おう」と歩きながら考えた瞬間に三条の交差点で当人が向こうから歩いてきた。

その時間帯に歩いていることがお互いにありえないのと、考えていたことがリンクするというよくできたタイミング。

この手の出来事が身の回りで多いので調べてみると、偶然性は実存主義などでは、人間存在の不条理さを示すものとして理解されている。

この不条理さ・無意味さは、同時に、必然的な本質の欠如を意味するものである。そのため、「人間は自由の刑に処せられている」というサルトルの言葉にあるとおり、偶然性は、自由の概念と結びつけられることになる。

これに対して、ヘーゲルなどの理性主義では、理念の現われとして理解される現実の必然性・有意味性が強調されている。

そのため、偶然性は、あくまで一時的で無意味な現象の側に帰せられている。

また、シンクロニシティの概念で、カール・グスタフ・ユングが、単なる偶然の一致とは区別される、有意味な偶然の存在を主張した。

これは、同時的な相関関係を、彼のいうところの集合的無意識に由来する元型の現われとして解釈すべきケースの存在することを主張したものである。

ただし、その非因果性をめぐっては、その非科学性が問題とされることも多い。
だそうだ。

必然だろうが有意味だろうが、無意味だろうが考えたことが目の前で現れるとはとても面白い。

また偶然と決定論によると、偶然は言葉として用いられるだけでなく、哲学や科学の分野において研究され、「偶然はそもそも存在せず全てが必然である」という立場を唱える学説(決定論)もある。

決定論によって仮定される全てを見通すような存在であるラプラスの悪魔のような存在は、物理学では、ハイゼンベルクの不確定性原理によって否定されている。不確定性原理が含まれる量子力学によって決定論が覆されそうになった時、その量子力学の創始者の一人であるアインシュタインは「神はサイコロを振らない」として決定論の正当性を訴え量子力学のEPRパラドックスなどを提示した。

しかし、ベルの不等式により定式化されたこの「パラドックス」は、後年実験的に確かめられてしまい、パラドックスではなくなった。現在、量子力学の解釈で(観測問題)アインシュタインの立場を採る学者はほとんどいない。
したがって、現在の物理学では決定論の立場を採る学者はほとんどいない。

なんだかよくわからないけど意識下における思考と現実世界の現象との相関性という部分でいうと”意識”というものの存在がなんなのか?がわからないとどうにもできないのか。

ひとつ言えることは、この”偶然性”からエネルギーが発せられるということ。
エネルギーが発せられるということは力と動いた距離の積がエネルギーとすると、どういうことか。

わからないのでとりあえずビールひとつください。

京都府立図書館

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