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報連相できないひとのはなし

写真の刺納七条袈裟は「糞帰依」という捨てられたぼろ布、汚物を拭うことにしか使えないような布を拾い集めて、綴り合わせて染め直した衣のことで、袈裟の起源でありリサイクルの原点だそうだ。
ここには仏教の精神が宿っている。

報連相ができない人の心理

今、毎日がとてつもないスピードで進んでいる。
生き急ぐという言葉があるけど、今この瞬間も衝動的にこれがしたいという思いにかられ発想と同時に行動している感覚がある。
あと3人欲しい感覚。

昨晩は新しいビジネスモデルの壁打ち兼、実証実験のプロと食事に行きながら意見交換をしつつ多くの気づきと視点をいただいた。
そんな中で答えに窮する問いがあったことが新鮮だった。

「報連相してくれと上司は言うが、より精度を上げて報告しようとするとタイミングを逃してしまう。今日報告しようと思っても中途半端な状態で、明日の朝となって「早く報告をしろ」と後手を踏むことがある。適正な報告のタイミングとは?」

と言うような内容。
今シラフでこれを書いていると、自己感覚よりも時間による報告しかないと感じるけど、昨晩はちがうところに意識が向いていた。
何かというと「報告する側の心理」だ。

報告する側はいくつかのパターンで報連相をしない(できない)パターンにハマる。
「上司の期待を超えたい」
「間違いを犯したくない」
「そもそもこの報告に興味関心がない」
などだ。

どれも心理的な影響だ。
どんな組織においても、これが発生する。
要するに目標を上司部下が横並びで見つめているのではなく、上司の背後に目標があり、縦列的に並んだ部下は目標よりも上司しか見えていない。
という状態だ。

この環境が引き起こされるのは誰のせいか。
これは上司のせいでもあり部下のせいでもある。
上司がフラットな環境を作っても部下が「それを許さない」場合がある。
この場合、部下は「上司に自分の管理者の権威を無理やりにでも与えようとする」。
もちろん無意識にでもだ。
なぜこれが起こるのかというと人それぞれだが、僕の経験では責任放棄(転嫁)、ゲーム三角形でいう無能の心理などだろう。

また、上司が無意識的に「管理下に置き」この状態が作られる場合もある。
この場合は部下への支配、ゲーム三角形でいう救援者の心理などだろう。

このような心理が働く場合、それぞれの「無意識」を「意識」化することが解決方法となる(裏目標に気づくこと)だが、冒頭で述べたとおり、今僕は「3人くらい人が欲しい状況」において、この状態(報連相が無い状態)が目の前に来ると『怒り』のブルドーザーでなぎ倒していく自分がいる。
誤解を招かないように伝えると、真剣に一生懸命やっているけれどミスったり、上手くできなかった場合はサポートをする心の余裕はある。

報告して欲しいと要求しても報告されなかったり、ミスを言い訳したりした場合には思考をそこに時間かけれない為ブルドーザーできれいにするしかない。

ヒトの持つ楽観主義バイアス

そのようなことに思考を使う余裕がないという状況だからだ。
と同時にそんな状況だからこそ、気づかせていただけることがある。
それは、人間の持つ「楽観主義バイアス」の存在についてだ。

楽観主義バイアスとは、人間心理に関する用語で、物事を自身にとって都合よく解釈してしまうこと。 「認知バイアス」の一種であり、危険な物事を目にしても自身には危険はないと考えてしまうことなどが楽観バイアスにあたる。 日常生活における心理的なストレスを軽減するため、無意識に行われるとされる。

今までが「こうだったから」、これからも「こうだろう」という根拠なき思い込み。
これを僕は意識的に排除しようとしてる。
なぜなら、それほど怖いことはないからだ。

なぜ今まであった仕事が明日も続くと思うのか?
なぜ今朝目覚めたからといって明日も目覚めると信じれるのか?
なぜ予定通り物事が進むと思うのか?

僕に言わせると、この「日常の連続性」を「暴力的に」画策しているとしか思えない。
「日常が連続する」ことなど、誰も保証をしていないし存在すらしていないのだ。

報告をしなくても、明日仕事がある。
目標に対して興味関心がなくても、死にはしない。
という「思い込み」がこのようなことを招いている(要素の一つであろう)。

ここまで書くと、えらい窮屈な生き方をしているように思えるかもしれないがこれは慣れでしかないし、コロナの状況下でもまだ気がつかないのか?とも思える。

「あなたの仕事は明日無い可能性が高い」


この言葉は、この姿勢で生きている人にとって当然のことなので特に反応はないだろう。
しかし、意識的にも無意識的にも、このことを避けている人達はここワードに嫌悪感や恐怖、居心地の悪さを感じるだろう。

「報連相をするしない」という現象は心理的などうのこうのももちろんあるが、そもそも土俵に立ってすらいないために起こる事であることとも言える。
土俵に立つか立たないかは本人次第だし、自由だ。
しかし「生きる」を実感するのは「死が近づいている」の存在なしでは証明し得ないことは理解しておいた方がいい。

人生のタペストリーは何で繕うのか

冒頭の「糞帰依」を拝見した時、その美しさに妙な感覚を覚えた。
今まで体験した絵画を見るときの「美しさ」ではない、少し妙な感じ。
ひとびとが、使いに使いまくりボロボロにまでなったものをさらに繕い、染め、集大成として袈裟に迄再構築される。
これは物語だ。
そして、人間の「わび」であり「さび」をあらわしている。
無常な自然界の流れとそれを知ること、楽しむこと。
僕はこう感じた。
人生とは「報連相ができない」や「仕事でミスった」などの一見無意味、無価値に見えることの価値化(意識化)であり、それらが繕われたとき(死するとき)ひとつの作品のような人生が浮かぶのではないだろうか。


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