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解説:墓のうらに廻る (尾崎放哉)
墓のうらに廻る (尾崎放哉)
放哉の代表作の一つ「墓のうらに廻る」についての解説です。
皆さんは墓の裏に廻ったことがありますか?私はあります。先日も廻ったばかりです。うろ覚えの道を辿って記憶も辿り「ここで良いはずだけど?」とぐるりと回って景色をみて思い出して。墓の裏に刻んである友人の戒名や俗名を確認します。ああ、ここで間違いない、と。血縁でない人の墓だと確認します。逆に、親族の墓だとそんなことはしません。表からお参りして、掃除をするときにまわるくらい。
ところで皆さんは古いお墓、放哉と同じ明治のお墓、江戸時代のお墓でも構いません。見たことがありますか?
その頃のお墓というのは今のようにピカピカの御影石ではなく、ざらついた緑褐色の脆い岩です。光るほど磨かれてもいません。
正面は今のお墓と大差なく家の名前が刻んであります。没年等の文字が刻んであるのは側面まで。裏に廻ると文字はなく、ノミのあとも生々しいざらりとした岩そのものがのっぺりとあるのです。平らにもしてありません。それが当時の普通のお墓です。放哉が見た墓はおそらくこのタイプです。
表から名前を見て故人を偲び手を合わせ、ふと裏に廻るとそこにはただののっぺりとした岩そのものの存在。表側が世俗的な儀式の場なら裏は即物的な、突き放したような無常観に包まれた世界です。放哉は、墓石を澪標として此岸から荒い岩肌のように冷たい彼岸を覗き見たのではないでしょうか。
「墓」という言葉は死に直結しどうしてもウェットになりがちです。そんな思いをたった9文字に凝縮し昇華することで、すっかりウエットさがなくなり、さらりとした詠み味にまでなっています。さらりとしていながら、深みを見つめる目があります。
自由律ではありますが、この詠み味、余韻こそ芭蕉以来の俳句らしい俳句、俳句の中の俳句だと思います。
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