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311

年が明けて早くも2ヶ月が過ぎた。2020という数字とともに人々の意識の先は今年開催予定のオリンピックなのだろうか?

少なくとも、自分の周りの話題の中にはオリンピックを楽しみにしてる空気は全くと言っていいほど感じられない。

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今年で9年を迎える311だが、あれから現在に至るまでにどんなことがこの国であっただろうか?

自分の人生において大きな分岐点になったあの日。

2011年3月11日 午後2:46 午後2時46分。

その日はいつもと変わらない平日で、ダンサー生活が染み付いていた自分。起きるのは夕方のレッスンに間に合えば良いため、寝起きのままベッドの上でうだうだしていた。そろそろレッスン前にシャワー浴びて飯でも食おうかなんて考えてた時間だった。

(((地震発生)))

大きな地鳴りの数秒後にウチのアパートが大きく揺れだした。

うちは、家具をあまり高く積まないレイアウトだったから(昔に経験した釧路沖地震の教訓)一番倒壊の危険性があったレコード棚の上に乗せた本棚を必死で抑えた。

地面と天井の揺れの周期が逆で、このまま捻れて揺れ続けたら倒壊もあり得るなと思いながらも必死で抑えてた本棚の上から、木のフレームに入れて飾っていたGANG STARRの2nd LPが俺の脳天に角から直撃した。


揺れも収まり、散らかりはしたが、これといった大きな被害は無く、のんきにも落ちてきたレコードにダメージがないかとチェックするほどに、この時はまだ緊張感はそれほどなかったように思う。

幸い停電もなく、まずは状況を把握しようとTVを点けた。

はじめに目に飛び込んできたのは、都内の劇場の天井が剥がれ落ちて下敷きになった模様というニュースからだった。次々に情報は更新され、テレビに釘付けになった。横浜の揺れの様子もすごい映像だったが、今そのニュース映像をいくらネット上で探しても見つからない。デパートかビルの建造物の割れた大きい破片が逃げる人々の間に落ちてくる映像、揺れのすごさを映すため、窓ガラスが開いたり閉まったりしているのだが横浜のどこぞのヘッドショップで、ガンジャマークの緑のラッピングされた窓がユラユラしてるのが何度も写り込んでいてちょっと心でニヤついたり。

発生から10−15分くらいは、まだその緊急感はそれほどではないと思っていた。

ただ、東京の都心で被災しなかったことが仕事柄で時間帯の運は良かったのだと思う。

TVで被害状況が続々更新していき、震源地・震度を速報で見た時は、言葉を失った。

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”twitter”にあった人情社会

TVは、極めて混乱していて情報が二転三転してうまく伝わってこない状況、その頃、俺は友人に勧められてtwitterに登録したばかりだった。

何気なく開いたtwのタイムラインを見て、さらに言葉を失う。

そこにはリツィートでタイムラインに、どこかで倒壊した建物に挟まれながら必死でSOSしてる人のツィートや、ビルに閉じ込められて不安がっている人、緊急停車した電車内のパニックを実況する人。その後には押し寄せる津波情報を必死に拡散する人も。

TVでは、到達前の押し寄せる津波の白くて果てしなく長いラインを空撮で捉え、報道機関のスタジオ内のパニックだけが映し出されていた

一方で、twにはリアルなSOSの叫びが拡散されタイムラインを覆っていた。

倒壊した家屋の下敷きになったまま、詳しく住所まで載せて助けを求めるツイートなど、その悲痛な叫びに対して何もできない自分がその時のリアル。

数分後には、津波到達の速報が流れ、空撮に映る逃げ惑う車に黒い水の塊が容赦無く襲い飲み込む光景。ただただその光景を見つめて祈ることしかできなかった。

余震も大きいし、帰宅難民になっている彼女(現嫁)も心配だった。幸い良い職場に恵まれていて、12時間後くらいに車で送迎してもらって帰ってきた。

その日から、仕事面で何も成す術がない日々になったのは言うまでもない。今のコロナの状況にどこか似ている。

報道は、津波被害の様子から原発関連にシフトした。自身の緊急停止から約40分後に津波が福島に到達したからだ。

原発一色の報道になり、状況はますます混乱し、TV自体が未曾有の状況の中で機能しなくなる。

一方ツイッターでは、さらに、各被災地の生活圏でのリアルな情報が錯綜していた。

「目の前で人が流されている。」

「〇〇市の避難場所にきたけど海抜が低い場所だから時間の問題」

など、切迫した状況のツィートがどんどん流れていく。

その中には、タイムラインでの情報を手繰り寄せて近くにいる人を探し出して指令やアドバイスを送る人や、被害状況に応じて消防や救急を的確に誘導し始める動きがtw上で巻き起こり始めた。

日が暮れてきても、とにかく必死に情報を集めてまとめたり拡散して支援を求めたりという動きがネット民の中で連携していった。

何より、その当時はFacebookが主流になる頃だったが、緊急時のtwitterというのは迅速性にかけてはかなり使えるツールだったことは間違いないだろう。今も情報の精査さえすればサクサク軽くて充電が持って行かれなくて何かあった時には信頼できるSNSだ。(あの時電話回線はパンク状態だったところでtwitterはバッチリだった)

今では、性格の悪いソーシャルネットワーカーの巣窟のように例えられるtwitterだが、少なくともあの頃のtwitter民はまだ社会的モラルのある人達が多かったように思う。

平成の平時にひねくれて育ったまま柔軟性の効かなくなった諦めグセのついたエセフェミニストがいて、安全圏から「どーせ」を連発する知り合いもいて友人であることに心底がっかりもしたし、半径5M以内の心配しかできない自己中野郎にはため息が出たが、TLには顔も名も知らない情報提供ツィッター民を励まし、東北の知り合いを励まし続けた日だった。

東京も次の日まで、交通渋滞は続いていた。パニック時に人間のとる行動とはネガティブなイメージになるものだが、俺が感じたのは全く違う暖かい感情だった。

徒歩で家路に向かう人で覆われた都内の主要道路沿いには、

「トイレ貸します」

「ケータイ充電できます」

「休憩できます」

道路沿いの民家や店などが無料で自発的に提供し始めたり、混乱した交差点の車の誘導してたのは警官ではなく自ら買って出た一般の人だった。そんな人に向けての「ありがとう」の意味のクラクションの音があたたかい。

自分の中になんとなくイメージにあった、有事の時の人間の残酷さや冷酷さはそこには見当たらなく、ただただ「人」を感じれる瞬間に出会えたのは人生の中でかなりのエポックメイキングな出来事のように思えた。簡単にいうと「やるじゃん日本人」だった。あの時は。。

(のちにpray for Japanという一連のツイート文が載った本が出版されている)

影響を受けた俺は、地震発生からの72時間以内の大切さに着目してUNIQLOに商品提供を募ったアクションを取ってみたり(あの時協力してくれた人たちは忘れてない)情報拡散したり、家でできることでベストを尽くしたり、東北出身のダンサー友達中心の支援プロジェクトに参加して、チャリティー活動にデザインで参加したり、自分のイベントで物資や募金を募ったり、気仙沼の現地に炊き出しに参加させてもらったりと、かなりの経験値をその半年くらいで積ませてもらった。

ヘッダーの写真も、その時に尊敬するダンサーの先輩であるMAIさんと共作で作った「祈り」を込めたチャリティーTシャツのアートワークだ。

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その後の地震被害や津波被害・原発被害は結果ものすごいことになったのは承知の事実だが、あの状況の中で自分のベストを尽くして動いた人には最大級のリスペクトを送りたい。


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有事と平時

その自主的なモラル美学はどんどん拡散され、それぞれができる方法で実践してる状況が続き、分岐点がその時見えた感覚だった。

「有事だ」

「もう平時ではない」

これから先にずっと続くやつだ、ってピンときた。陰謀論とかの類が趣向の音楽、HIPHOPやREGGAEなどのジャンルの中では普遍的だったから。

単刀直入に言うと、「この先の未来は地獄」

シナリオ通りに行けば、といった話だったが、あれから9年、今のところシナリオ通りだ。

俺は、あの震災を経験して、平時の頃に「遊び」の中でシリアスなHIPHOPで培った真実の情報をさらに突っ込んで調べていくようになった。HIPHOPやREGGAEのアーティストのリリックから国家陰謀を抽出して、その裏付けを調べた。

そして結果としては、続く有事を察知し、東京を離れた。

震災から1ヶ月後に娘を授かり、先の不安を見越して早めに腰を上げて北海道に戻って拠点を変えた。

その後もダンサー繋がりで、できる支援はし続けた。

青春のほとんどを平成という時代で育ったが、その時までの「一緒の時代を生きれて幸せなマイヒーロー」にダウンタウンの松っちゃんがいた。とんねるず育ちでもある。どちらもバブル時代の産物だ。特徴は人をイジって笑いを取る手法で人気を持ってた。彼らが若手だった頃は上も下も関係なくぶった切っていく様が痛快で楽しかったが、徐々にスタッフや若手のいじりがいじめを連想するようになっていく、彼らも歳や人気と共に必然的に下の世代に対してのいじりになっていったんだと思うが、とにかく今は全く笑えないのだ。

過去の映像をYOUTUBEで見てもシラけてしまう。

もう、時代が違う。というか状況が違う、先の未来を読むのは難しいが、シナリオ通り。政府の意図がわかってしまった。

311直後、原発が爆発し、当時民主党政権時だったが、政府の発表で「直ちに影響は無い」の市民切り捨てから始まった政治監視。

それでも、当時の民主政権時、菅や枝野の不眠での緊急対応はまだ平和な国を取り戻そうと努力する気概は感じれた。臨時国会で緊急を要する復興に関する予算審議を審議拒否して足を引っ張る当時の野党である自民党には心底腹がたった。

そして、揚げ足を取られ第二次安倍政権が始まった。

話を松っちゃんに戻そう、今、松っちゃんと安倍の関係は、吉本と政府という企業と政府の間柄でイチャイチャ仲が良い。ヒーローだった松っちゃんは、今となっては俺に取って”笑えないしバカ”なだけの過去の産物に成ってしまった。(ありえないと思っていた)

平時なら笑えてた。でも今、有事だから全然笑えないのだ。

平時に培ったスキルじゃ有事には効かない。

そう、311から今まで、平和な年なんてなかった。震災から安倍政権に変わり、市民目線の政治ではなくなり、アベノミクス詐欺は大成功。アメリカ様にカツアゲされ、その娘にまで50億もプレゼントして機嫌を伺い、じわじわと国の財産たる主産業を売り物にし、多くの中流階級を下流に流し込み、食の安全も確実に奪っている。教育環境で夢を語らせ、その夢が叶えられない仕組みを作り続けている。平和憲法をすり替え、選択の自由を奪い、全体主義の中で奴隷になるやつに一時だけのハニートラップを仕掛けて誘導している。安倍のままの、いや自民のままの日本は確実に窒息死してしまう。

加えて増えた天災に、疫病まで加わる時代に突入した。

単なる偶然だと思ったらそれはお花畑だ。

政府は計画に基づいて動いている、反論が届かなければその計画は実行され続ける。

興味がわくとかの次元ではなく、自分の将来、子供の将来のために今しなければいけないのは、無駄なニヒリズムを削って出たそのスペースに生物としての情を肉付けして、他人任せをやめて自分自身の思考を身につけることだ。

将来、その頃にはバリバリの社会人になる今の子供達には「あんたらがちゃんと政府監視して戦わなかったから生きずらくてたまんない」って言われる気がしてる。


つまり、この日本は、あの日から今まで。

行動を取らなければこの先ずっと、有事のままである。


元来、ブラックなジョークが得意な自分にとっては厄介な時代だ。でも柔軟でなければこの時代はサバイブできない。今は有事である事をしっかりと確認して新しい時代にマッチして行かなければならない。平時が訪れれば、また松っちゃんで笑える日が来るのか?笑える日が来る事を願って、今日も僅かながらにできる限りのことをする。

今日のこのメモリアルな日にも関わらず、ドサクサで独裁に持ち込むムーヴをかましてる安倍政府を下すことが日本の危機を救うことは言うまでもない。


PRAY FOR 311.....

STAY STRONG KEEP YA HEAD UP....

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