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投票の日、あるいは12ひきのサルのポートレート | 第80回現展出品作品 特別寄稿

今回出品の『投票の日、あるいは12ひきのサルのポートレート』は、『猿山には2通りある。』(2022年)を改題し、修正を加えたものである。原題にあるように、被写体は大きく分けて2通りだ。1つがモンキーパーク、もう1つがモンキーセンターである。モンキーパークの方は京都の嵐山モンキーパークいわたやまに、モンキーセンターの方は愛知県犬山市の日本モンキーセンターに取材している。

主題は『猿山には2通りある。』で既に述べたように、私たち社会の2つの在り様を表現するというものだ。パークの方はニホンザルのみという均質な社会。対するセンターは異なるサル類が一同に会した多様な社会である。今回はそれを一目で直観できるよう、右翼と左翼で背景に趣向を凝らした。少し単純に過ぎるが、右翼の赤・左翼の青というわけである。

その赤と青、それが含意する米国では2024年、世界情勢の危ぶまれるなか大統領選があり、その結果は投票の自由がない国々との軋轢を生むことになるかもしれないと僕は危惧している。

であればこそ、今こそあらためて自由投票という行動が素朴な内心の発露を前提としたものだと表明する時ではないだろうか?投票の意義を見失いかけている本邦でも、この視点は同じように必要だと思う。それがこの作品の趣旨である。

とはいえ、実際そこまでのことを言えるのか?パークが右翼でセンターが左翼というのはさすがに言いがかりだろうという意見もあると思う。そこで今回はこの2つの成り立ちを深堀りしてみた。すると非常に興味深い事実が浮かび上がってきたのである。


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まずこの発見は偶然だったのだが、どちらも同じ1956年に事業を開始していた。そしてどちらも同じ京都大学霊長類研究グループから施設長を選定していた。このころの様子を探るため当時研究者の言葉を引用してみよう。

❝わが国における野生ザルの本格的調査と研究は、第二次大戦後まもない昭和二十三年ごろ、敗戦の焦土の中から京都大学の今西錦司、川村俊蔵、伊谷純一郎、徳田喜三郎という四人の動物学者のサル(=二ホンザル ※九条註)研究着手によって始まったのである。続いて二十六年、宮地伝三郎教授らの動物生態学グループが加わり、霊長類研究グループが結成され、さらに他大学や研究所を含む心理学、解剖学、実験動物学、そのほか広くいろいろな研究分野にたずさわる人たちにまで拡大され、十数年もたたないうちに、わが国霊長学の飛躍的進歩は、海外の注目を集めるまで発展した❞

間直之助『サルになった男』(雷鳥社, 1996)

という。ちなみに著者である間直之助は後から加わったとされる宮地教授のグループであり、その後モンキーパークの施設長に就任。サルの調査および餌付けを担当し、施設は地主である岩田家の個人経営として開園している。一方でサル研究の源流というべき今西錦司は、名古屋鉄道が出資して文部科学省所管の財団法人として発足した日本モンキーセンターの所長代行に就任、その後日本霊長類研究の創始者として知られることになる。


ところでこの今西という人物、その伝記を手掛けた斎藤清明によれば、学術研究者というよりも登山家であったらしい。戦前から海外遠征調査を手掛け、戦後10年も経たないうちに京都大学山岳部OBを率いてヒマラヤ登山にまで出かける筋金入りの冒険家だった。僕には、今西が名古屋鉄道から打診され手掛けた日本モンキーセンターの設立も、その直後に出発したアフリカ行の下準備という側面もあったように思える。まさに渡りに船だ。

ただこのアフリカ行「日本モンキーセンター第1次ゴリラ調査隊」は、センターのためにサル類を回収することだけが目的ではなかった。今西はニホンザル研究を始めた当初から人類の起源について理論的考察を行っており、それがアフリカでの類人猿調査に結びついた。その結果、翌年の1957年には霊長類専門の学術誌『プリマーテス(Primates)』を創刊する。

そしてこれらの行動は当然個人で賄えるものではなく、パトロンを必要するのだが、中村美知夫『「サル学」の系譜』によれば日本モンキーセンターの初代会長は日銀の総裁、大蔵大臣などを歴任した人物で民俗学者でもあった渋沢敬三だったらしい。今西や伊谷純一郎が海外へ進出する際にも資金的援助をしていた。さらに『プリマーテス』の第一巻、一号と二号は日本語で出版されたが、第二巻からはロックフェラー財団の資金的援助を受けて完全英語化される。

ということで今回いきさつまでは判明しなかったが、モンキーセンターに左翼側の潮流があることは想像に難くないように思われる。霊長類・類人猿の研究がそもそも左翼側だともいえるかもしれない。


さて、この世界的な財団法人として出発したモンキーセンターに対して、国内の個人施設であるモンキーパークを引き合いに出すのはどうか?と一瞬思われる。しかし実はこちらも負けずと曲者なのだ。

始めに気づいた違和感は、モンキーパークのWikipediaにある開苑の由来にかかわる以下の記述だった。

❝1954年(昭和29年)の7月に発案者や山の所有者のほか、農林省京都営林署長、京都市観光局の課長・係長、京都大学霊長類研究グループの代表宮地伝三郎や研究者など約10名の出席のもとに初会合が開かれ、岩田山にて岩田家の個人経営と決定し、サルの調査および餌付けは京大霊長類研究グループの研究者間直之助に一任されることとなり、すぐさま本格的な調査が開始された❞

wikipedia「嵐山モンキーパークいわたやま」

同様の内容が先に挙げた間直之助自身の著作『サルになった男』に記載されているのだが、ここで問題となるのは「京都市観光局」である。なぜなら、遺跡調査を主におこなう「京都市文化観光局」の資料が散見されるようになるのは1965年からであり、それ以前の「京都市 観光局」の資料でも一般的な観光資源の調査はされておらず、主に歴史的寺社や文化の資料化がされているのみだからである。とても私設モンキーパークのために市役所の課長が出張ってきたようには思えないのだ。

これは推測になるが、戦後まもなくの頃の市役所の役割は、戦火を逃れた文化財の調査と保護が主目的であり、観光を推進するものではなかったのではないだろうか?一般的には、東京オリンピックが開催された1964年に日本政府観光局が設立され、ようやく海外を含めた観光業が再スタートしたという認識であっていると思われる。


ではモンキーパークの設立に立ち会ったという「京都市観光局」とはいったい誰なのか?

そのヒントとなったのが、京都洛西地区保勝会連合会/編『京都洛西の観光とハイキング』(1960)である。ここに開園したばかりのモンキーパークが大きく取り上げられているのを見つけたのだ。

まったく初耳だったが、編集者である「保勝会」とは、「自然や観光地の美化と、その魅力を守り後世に受け継いでいくための活動を行う団体」であり、実は今でも日本全国にあるらしい。

ウェブ検索を頼りに「保勝の祖」という田中善助の『鉄城翁伝』(1944)を閲覧したところ、この翁は地元伊賀の開発に大きく貢献した人物だったと判明した。『鉄城』とは「鉄道」のこと。あの夏に旅した伊賀鉄道を通したのが、この翁だったというわけだ。ただ戦時中ということもあってか、翁を当時ドイツの首領になぞらえる文面もあって思わず笑ってしまった。

しかしここでようやく気付いたのだが、戦前は鉄道省が観光局を担当していたのではなかったか?1930年鉄道省外局に「ジャパン・ツーリスト・ビューロー」から名称変更された「国際観光局」が創設され、京都市にも観光課を設置し、外客の誘致に努め、戦後解体された。だが組織としては解体されたかもしれないが、外国語に堪能な人材は残っているはずだ。そして国際観光局の資料には、京都支部として戦前から残る3つの老舗ホテルが記載されている。

そして『サルになった男』の原本には、正しくはこう記載されている。

❝(開苑の会合に出席したのは地元の岩田、古川氏と京都動物園技師星野さんら)三氏のほかに、私の大学時代の学友で、霊長類研究グループの代表者である宮地京大教授を含め、農林省京都営林署長、京都観光局・課・係各長らと私の、約十名であった❞

間直之助『サルになった男』(雷鳥社, 1996)

ここで局・課・係を三人として計算すると、合計九名になる。

これらは推測の域をでないのだが、おおよそ確からしいと思える。つまりモンキーパーク設立に与した謎の「京都観光局」とは、おそらく当時まだ市政に直接影響力があっただろう戦前の「観光局」だった。そしてそれは戦前から続くホテル事業者だったのであろう。

彼らは右翼側で大きな影響力をもっており、2024年の米大統領選右翼側の代表がホテル王であることもきっと偶然ではないのだろう。


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ニホンザル研究が着手された当初の事情は、伊谷純一郎『高崎山のサル』(講談社, 2010)に詳しく記載されている。今西・伊谷らが九州の幸島でサルの群れを餌付け調査をしていたところ、別府温泉の近傍である高崎山で始まった餌付けも成功し、伊谷らが個体識別を始めたことで大きく研究が進んだのだという。

今では特に珍しくも感じられない餌付けだが、人間の食糧も乏しい戦後すぐの時期である。継続的に大量の餌を撒くことで、一種の害獣であったサルを転じて観光事業にしようというのは批判も招く、ある種の投機だ。『高崎山のサル』には高崎山の餌付けは上田大分市長の発案とあるが、おそらく彼を後押ししたのは戦前から続く別府のホテル事業者だったのに違いない。

このように考えてくると、サルを餌付けして見世物にしようという右翼側の素朴な観光企画が、のちに左翼側の日本で霊長類研究が大きく進展するきっかけになったということだろうと思われる。

事程左様に社会は2つに分裂しているのではなく、相互に影響しあっているといえるのではないだろうか。


だからこそ、そこで自由投票を行うのは党派性に強制されたものではなく、素朴な内心の発露を前提としたものになるのである。



【参考資料】

  • 間直之助『サルになった男』(雷鳥社, 1996)

  • 斎藤清明『今西錦司と自然(日本の伝記 知のパイオニア)』(玉川大学出版部, 2022)

  • 中村美知夫『「サル学」の系譜 -人とチンパンジーの50年』(中央公論新社, 2015)

  • 京都洛西地区保勝会連合会/編 京都市観光局/監修『京都洛西の観光とハイキング』(京都洛西地区保勝会連合会, 1960)

  • 鉄城会同人『鉄城翁伝』(上野鉄城会事務所, 1944)

  • 伊谷純一郎『高崎山のサル』(講談社, 2010)※ただし初出は今西錦司/編『日本動物記 2 高崎山のサル 伊谷純一郎』(光文社, 1955)

WEB - Wikipedia (2024.05.18 確認)

WEB - 三重県立美術館 (2024.05.18 確認)


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