見出し画像

「死ぬんじゃねーぞ!!-いじめられている君はゼッタイ悪くない」中川翔子

今回の記事は、私の属しているコミュニティのメンバーが選んだ本について自分の感想を述べたものになっています。同じグループのメンバーである、Takuma KogawaさんとDaikiさんのnote記事及び書評の記事は下にリンクを貼っているので、そちらの方も合わせて読んでいただけると嬉しいです。

https://note.com/takuma_kogawa/n/n22809b96e3c4


本を読む前に

まず本書を読む前に考えていた事と自分のスタンスを前提として述べておこうと思います。
自分のいじめに対する認識は、「相手に悪意を持って行う行動をすること」と考えていました。特に「いじめ」と言った場合は、それが多数対1人に対して行われることもあれば、1人が1人に対して行うこともあるといったように捉えていました。ただ、自分の見聞きする範囲では少数のグループがより多数のグループに対していじめをしていたという事例を聞いたことが無かったので、「いじめ」においては人数的な有利が大きく影響を与えるだろうと想像していました。つまり、有利な立場の者が立場の弱い相手に対していじめが行うといった構図という認識があります。

自分のはなし


ここまでの書き方でも分かるかもしれませんが、自分自身がいじめの当事者(いじめをする方・される方どちらも)になったことは無かったように思います。子供の時には友人と意見の相違から喧嘩をしたり、少し互いを避けるようになったりしたことはありましたが、明確に悪意を感じる行動をされたことはあまりありません。そのせいか「いじめ」に対して当事者の視点を持って深く考えるということが難しく感じました。
しかし、学生時代に明確に「避けられている子」はクラスにいたように思います。個人的には、これまでの人生の中でそのように避けられていた子はいじめられているとはあまり感じませんでした。その理由をある程度強い言葉を使うと、そのような子はいずれも何かしら本人に原因があることが多かったように感じるためです。今大人になった自分が苦手な人物が近くにいて関わらなければならない場合、相手との繋がりはやらなければならないお仕事の部分での繋がりに留め、プライベートな繋がり(自分のごく個人的な話や自分の思想など深くにあること)はなるべく持たないように立ち回ると思うので、その頃に周りにいた子が、その子と深く関わるという選択をしなかったことが悪いこととは全く思いません。近くで生活している人となるべく良い関係を築くということは大事な力であるということを否定はしませんが、自分のことを守るために相手によって適切な距離を考えることはそれと同じぐらい大事なことと思うので、適切な距離を保つこと(避けること)は「いじめ」と同じ意味にならないと考えます。

弱者といじめ

ここからは弱者という話題に関連して、自分の弱者についての考えを開示していこうと思います。まず、世間的に弱者と認識されているということと自分から弱者であると積極的に発信をしているということは全く同じでないと考えています。もっと言えば、自ら弱者であると発信されている方の中には際限のない譲歩を求めている人物の割合が多いように感じています。ここからも、弱者であるという立場を利用して何かを求めていくという動きは、単に自分が弱者なのかもしれないと考えるということとは別と考えます。
アフリカの子供達が汚染されている水しか飲めないというニュースがよく報道されています。綺麗な水を送るというのも解決策の一つではありますが、それでは水を送れなくなってしまった時に同じ問題に直面してしまいます。それの解決策としてもっとも効果的・永続的な解決方法は、井戸や水を浄水することのできる施設を現地の方を交えて開発・作成することが挙げられます。このように長い目で見て解決する為に何をしたら良いか考えなければいけない際でも、その時の話題性ということを優先してしまうという姿勢に違和感を持ってしまいます。
このことは「いじめ」でも同じことが言え、何かしら改善点があるという状態なのにも関わらず、自分を一切変えずに関わるべきと主張している人物には違和感を感じるということです。
いじめられている当事者が全て悪いというわけでは全くありませんが、なんでも本人が感じたら「いじめ」としてしまうことには限界があると感じています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?