『バスタブで暮らす』を読んだ感想 生まれてくる事に成功してしまった人々へ向けて
私は普段ライトノベルをあまり読まないのだが、ガガガ文庫の『バスタブで暮らす』を友人に勧められたので買って読んでみた。表紙のデザインは好みではある。主人公とは抱えている性質が似ている(鬱病・睡眠障害・希死念慮・いわゆる社会不適合者)なのは感情移入が出来そうだ。最高傑作との触れ込みもある。
読破した感想。
実に正しい小説だ。イラつかせられる。自分の左翼性を強く認識した。
ウィリアム・バトラー・イェイツの有名な詩を思い出す。
私と磯原めだかの考えは一見非常に似通っている、にも関わらず。
イラついた理由は単純明快だ。私が、主人公が嫌がっている「テンションが高すぎる人間」だからであり、「テンションが高すぎる人間」こそ真に救済されねばならないと考えているからだ。
それに「人にはそれぞれの天国があって、それぞれの地獄がある」ここにはハァ?となった。天国の事は知らないが(なにせ天国とはまったく無縁の人生を歩んできた)地獄は一つしかない。
この小説のテーマの一つに《顔》がある。恐らくはレヴィナスにおける他者の《顔》概念を参考にしたのだろうが(まぁ今やありふれた概念ではある)、私も《顔》という概念には一家言、という程ではないが、持論を持っている。まずミラン・クンデラの傑作『不滅』の一部『顔』より少し長いが引用する。
最近歳を取ったせいか、他の人間に対して「ああ、このパターンね」と思う事が明らかに増えた。容姿を観察しざっくり分類したりもする。いわば類型に生身の人間を還元して把握を行う訳だ。よくない傾向だとは理解しているが、気持ちは楽だ。もちろん毛沢東の「戦略の上では敵を軽視し、戦術の上では敵を重視せよ」が重要なのは分っているつもりではあるが。
しかし傲慢な気分の時には市井の人々がみな知的障害のちいかわちゃんに見えてくる、という事もある。このラノベの表現を借りれば「へのへのもへじ」に見える、という感じだろうか。
これは中里一の受け売りではあるが。
観察に頼るほど、人間は類型的に見える。考察を重ねるほど、人間はそれぞれ違って見える。観察の絶対量に比例して類型性を感じるようになるのではなく、観察に比して考察が足りないとき、類型性を強く感じるようになるのだ。
観察によって新たに得られた経験はまず、既存の枠組みに照らし合わせて理解される。このとき、もし深く理解したなら、既存の枠組みはなんらかの弁証法的発展を迫られるはずだ。だが、深く理解するコストを惜しむと、既存の枠組みに押し込めただけで終わる。こうなると人間が類型的に見えてくる。短絡的に人を同じような顔に認識してしまうようになる。人間を同じように見るのだからフィクションに対してもなおさらだ。『鬼滅の刃』で鬼舞辻無惨の「しつこい」に反感を覚えながらも実生活では自民党を支持し、オーウェルをおもしろく読んでいる時ですら二重思考し全体主義への愛を誓うのだ。私も同じ罠に陥っているのかもしれない。
これだけなら、もっと考えてその人の《顔》をちゃんと見ようね、で済む。
しかし現実的な話、我々が考察を可能にする思考力というリソースは有限であるがゆえ、誰に対してもそのコストを惜しみなく注ぐ、という事はできない。物理的に不可能だし非推奨の社会だ。だから適切なコストの注ぎ方を思考しなければならなくなる。換言すれば惰性で顔を認識できるように。
そうなると楽をする方法として、顔を認識可能な優れた人間同士で付き合う事がそのコストを軽減する方法になる。つまるところ、唾棄すべきエピクロス主義の誤謬に陥る。楽をするもう一つの方法として、糞など一つも存在しないかのような美的理想への絶対的連帯の青写真を描く事だ。つまるところ、おぞましい全体主義の誤謬に陥る。
この小説は磯原めだかが、自分なりの意味で"大人"になる物語が描かれている。心地よいバスタブの中でそれは育まれた。
自分が属する世界を愛せない時にどう生きるか。選択肢は二つある。
エピクロス主義か、ヘーゲル主義かだ。
ヘーゲル主義者が逃げ込める心地よいアサイラムが必要なのもまた事実ではある。多くの共産主義者が夢破れ、なんの気力もないエピクロス主義に浸るようになったのは、仕方のないことなのかもしれない。だが、仕方なかったと言うのかもしれないが、誰もが仕方がないと現状に項垂れたせいで、「歴史が終わっ」た。皆が「大人になっ」た。歴史が終わるのだから人間も完成し幼年期を脱したという事だ。大人びた「現実主義」「レアルポリティーク」のヘゲモニー。盲目的なファクト狂信者の誕生。中国共産党のデジタル・レーニン主義とGAFAを始めとするテクノ・リバタリアンやビッグ・テクノのもたらすデジタルファシズムという皮肉な一致。
21世紀、左翼といわれる存在がほとんど絶滅し、原理主義的なナショナリズムが世界を支配するようになった。911からはじまり、ネトウヨであった山上哲也による安倍晋三の暗殺、トランプ支持者のホワイトハウス占拠、ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルのジェノサイドを見るに、かつて左翼の専売特許だったテロルはすっかり邪悪な情熱に満ちた右翼のものになった。いわば「テンションが高すぎる人間」たちだ。リベラルはなんの気力もなく、ポリティカル・コレクトネスという美容整形を加えながら、不快のないゲーテッドコミュニティで、愛と知に満ちた幸せな日々を送っている。「テンションが低すぎる人間」たち。
主人公である磯原めだかの誕生肯定について触れてみよう。
低体重児として生まれ、序盤「生まれてくることに失敗したのかもしれない」と言い、20歳で死にたいと願っていためだかは、最終的に自身の誕生を肯定する事になる。まぁ、それは結構な事だ。しかし無責任な転向は良くない事も事実。その罰として自殺していただきましょうか?いやいやそれは流石にあんまりだろう。それにしても高貴で賢いリベラルな方々はつねに生きる意味・誕生の理由などに悩んでいて滑稽だ(映画『Idiocracy(邦題:26世紀青年)』の冒頭でも見ればわかりやすい)。
本当に哀しいのは、「生まれてくることに成功した!」人々だ。リベラル民主主義経済やナショナリズム・イデオロギーと一体化し、"紆余曲折を経ず"とも誕生を肯定できてしまっている人々のことだ。メンヘラぶったシニカル・フェティッシュモードで機能するサブカル共も「死にたい」などと気軽に呟くが、本当は生まれてくることに成功したと思っているだろう。
私も生まれてきたくはなかった人間だが、ある意味で「生まれてくることに成功した」がゆえに、凄まじく苦しむのだ。私は倫理的な人間であり、常に残酷なる超自我の裁きに苦しんでいる。
残酷な裁きを受けている時に「生まれてきてよかった!」と誕生を肯定できる人間というのは、はっきり言って狂人あるいは殉教者の類に入る。
ひとつ言っておくと、この社会では厳密な意味で《自分=人間》の子供をつくることができない。映画『エイリアン』に出てくるフェイスハガーをイメージして欲しい。ただし空想上のイデオロギーの形態をとったフェイスハガーだ。ウヨウヨといたるところに徘徊しており飛びつき、人間をエイリアンの子宮に作り変えてしまうからだ!この力は男だろうが女だろうが子宮の有無に関係なく問答無用でエイリアンの子宮に変化させ、本家本元のフェイスハガーのように生む時に母体を殺さないサステナブル(=生権力)さがある。そして人間は自分をエイリアンの子宮だと思い込むようになり、生まれた子供をエイリアンへと育てようとする。本当はエイリアンではなく、人間のこどもであるというのに。エイリアンが跋扈する世界では、人間はおびえ、震え、ショッピングモールに立て籠もって、人間同士で暮らしている。自分をエイリアンだと思いこんでいる精神異常者たちに囲まれて育った人間の私は、人間に囲まれて育ちたかったが、まぁもうどうでもよろしい。
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そろそろ長くなりすぎる。このくらいにして結論へと至ろう。磯原めだかと共通点が多いにも関わらず、私はこの物語と圧倒的に相容れない。はっきりと言葉にするにはもう少し時間が必要そうだが、ウォークネスな部分を感じる「積立NISAとiDeCoをはじめた」という点に決定的な違和を感じた。エマニュエル・トッドも、スラヴォイ・ジジェクも資産運用はしない。働かざる者食うべからずだ。毒をもって毒を制す、それは結構な事だ。先立つものは絶対に必要不可欠。しかしヴァルファキスの概念「世界牛魔人(グローバル・ミノタウルス)」は生半可な反抗はすべて自身の力に変換してしまう恐ろしい怪物だ。舐めてかかるのはよくない。
ウダウダと罪の意識を感じるのは、プロテスタント的倫理「何をしても赦されるよ。ただし罪悪感は感じなさい」だからだ。以前泊まったホテルにこんな張り紙があった。「快適な宿泊をお楽しみ頂く為に、喫煙・迷惑行為には罰金が課せられます」楽しむ事を拒んだら罰せられるのだ。ここではスターリン主義を対抗馬として持ち出すべきだ。「敬虔であれば敬虔であるほど、ますます処刑に値する」。
1920年代、「党綱領からの左翼的逸脱と右翼的逸脱、どちらがより悪いか?」と聞かれ、スターリンはこう答えた。「どちらも悪い!」そう、どちらも悪いのだ!
ちなみに主人公がVtuberとなって行っているASMRという文化に関しての中国共産党の見解と私の見解は驚く事に一致している。人間を堕落に招く、悪しき音。これは難癖でしかないが、イラつかせられるには十分だ。そもそも、ネット世界などすべてが虚構。
私も生まれてきたくなどはなかったし希死念慮が凄まじく強かった時期もあるが、今は生まれてきたのは最悪という事もないか、くらいの気分ではある。つまり誕生を一応肯定している立場にあるので、程度の差はあれ磯原めだかと結論を同じくにしている。
しかし私はまったく違う論理で、自分の誕生を肯定する。
ここで磯原めだかのように、現時点での私なりの"大人"の定義を説明しよう。
「空想上の地面に地に足つける事も、理想の翼で空を自在に羽ばたく事もせずに、宙吊りになって耐えている人間」
ソルジェニーツィンやプーチンのように過去には帰らない。
カストリアディスのように未来に行こうともしない。
うごくちゃんやマーク・フィッシャーのように自ら命を断たない。
共産趣味のような最も下劣な趣味を跳ね除ける。ボクたちはセンスがよく大衆と違って複雑なことを考えているとクローゼットに引きこもる人間を糾弾する。人種、ジェンダー、セクシュアリティ……そんなものよりも自分の収入や保有資産額、親が子供の頃払ってくれた養育費を快く公開しあう。クィアな人々に対してはこう言い返そう「階級、階級、階級」。破れ傘を片手にした修行僧のように孤独に道を往く。
バスタブでは暮らさない。エスタブにも属さない。
弁証法的な《生》の躍動こそ私の理想とする"大人"の姿である。
だが私の"大人"の定義も、磯原めだかの定義するところの"大人"も、誰が決めた"大人"の定義も子供には関係がない。子供にとってどんな大人だろうが大人は大人で圧倒的な非対称があるからだ。本来われわれには何の義務もなく責任もなく自由な存在ではあるが、それでもハシェク『兵士シュヴェイクの冒険』の印象的でアホらしいシュヴェイクの独り言と、俺が若い頃に大変熱中したFPS『Call of Duty』シリーズから引いて、あえてこう主張しよう「義務が呼んでる」。
苦痛と不幸の問題にケリを付けられる特権を享受可能、という意味で、俺は自分の誕生を肯定するようになった。俺の人生は地獄ではあるものの、その地獄を葬り去る事が可能という意味で最悪ではない。地獄を克服できなかったものたちに比べればまだマシだ。カカシ先生は偉大だ。誰も後ろめたく思わなくていいカカシ。ちなみに韓国で雷切は「ネジョル」と発音し、悪い意味で繰り返すことのスラングとなっている。雷切ではなくオビトとの和解のしるしである神威こそ必要なのだ。
磯原めだかと私には決定的に違う部分がある。彼女には「希望を抱く勇気」があった。幸福へと到れるようにとの勇気があり、絶望しきってはいなかった。家族や友人に恵まれている、という部分が大きいだろう。
私にはジジェクの言葉を借りれば「絶望する勇気」があった。絶望しかないのだからゲッベルスではないが「絶望を総動員」して希望へと到れるように。ヴェルギリウスのアエネイースから引けば「天上の神々を説き伏せられぬのなら、我冥界を動かさん」だ。ミルトンの書くサタンのようにこう言おう「悪よ、私の善となれ」。原口沙輔 『人マニア』の歌詞を借りれば「ビバ良くない!」「生きろ悪意も恥も償いも全毒背負ってくたばらにゃいかんね」だ。『龍が如く』のキャラソンから、「絶望の底辺からあいつらを見下してやれ」。見せつけろ絶望頂プライド!!
幻の神殿と幻のマナそのものよりも、それを目指して上演された――地獄の業火に値する罪深い劇が鋼鉄を鍛えた。
問題は希望へと到った後に、なにをなすべきか?だ。
それを示せない枠組み――改良主義的ポリコレはウンコの一言に尽きる。
人間はみな同じ、などという妄言を吐くつもりはない。
人間それぞれにそれぞれの顔があるなどとも言わない。
人間を無理に変えようとする誤りは犯さない。
愛せないものを無理やり愛させようとするおせっかいはしない。
軽々しく分かるってばよとか、理解や共感を示したりはしない。
「テンションが低すぎる人間」が「テンションが高すぎる人間」をシニカルに軽蔑する社会で、あえて「テンションが高すぎる人間」の側によく目を配り、原理主義フェティッシュにしがみつくという偽りの希望ではなく、真の希望を示してやるバカバカしい下劣な物語たる"虚構を貫く弾丸"がわれわれには必要だと考えている。
淫夢の人たちのAIの利用活用方法をみてみろ。1銭たりともマネタイズできないクッソ汚いものに情熱を注いで、あんなに楽しそうじゃないか。磯原めだかはこれを天国と称するだろうか、あるいは地獄と見做しそこに顔をみいだせなくなるのか?おそろしい仮面の群れが見えるのか?分からない。 ただひとつ言えるのは、地獄の悪鬼にも顔はある。
*
禁断のファイナル・ラスト二度打ち。
本の帯に「この物語を必要としている人がたくさんいます。」とあったが、確かにある意味で俺にこの物語は必要であった。俺はこの物語を揚棄しよう。どうせ俺なんか。リベラルが地獄に堕ちた悪鬼を冷笑しシャーデンフロイデを感じるならば俺も笑ってもらおう。夢なんか見ない。日向の道は歩けない。生まれ変われない事には素直に向き合う。
それに作者のユーモアセンスがあまりにも肌に合わない。文化資本のない父親の年収が287万円の家庭で育った俺にはこういうユーモアは非常にお高くとまっているようで、イライラさせらる。もっと淫夢とかAIタクヤとかリーグ・オブ・レジェンドとかよく見てほら。作者は障害者として罵られた事はあるだろうか?「片手でLoLしてんじゃねーよ劣化◯武が」私にはたくさんある。まぁただの持たざる者の妬みだが笑
俺と磯原めだかはあまりにも対照的だ。家族を愛し、小柄で、声がかわいく、容姿もよく、虚弱だ。ついオチンチンを挿れたくなる理想的な属性を有している。いや、こんな萌え~な女にはオチンチンは似つかわない、美少女女子中学生とヴァギナを擦り合わせるべきだ。
一方、俺は家族を憎み、やや大柄で、声がイカつく、容姿はまぁ……だが、一般的な常識や良心を持たずに生まれてきた天与呪縛のフィジカルギフテッドであり、タフという言葉は俺の為にある。同じようには、いかない。
たくさんの人が必要とする物語をいともたやすく揚棄してしまえる事は、哀しくて孤独なのかもしれないが強さには必要不可欠である。
復讐は優雅に?なるほどご利口な事だ。俺は血みどろで、情けなく、絶望の淵でみっともなくもがくような復讐を選ぼう。
もしかすると、この生まれてきた事をかつて否定した女と俺は同じ事を言っているのかもしれない。一度しか読んでいないので、俺の些細な勘違いを膨らませてしまったのかもしれない。周恩来がフランス人ジャーナリストに聞かれたこと「フランス革命をどう捉えますか?」に対しての答え「今はまだ分からない」というのを俺も言うべきなのかもしれない。
ただ、磯原めだかとは「また別のしかた」で俺自身を変革させる必要がある。
そうなると誰も俺を理解できなくなるかもしれない。
だが「さきに生まれたもの」大人の責任を果たすべく、不幸にも生まれてくる事に成功してしまったガキども――ジェイムソンの言葉をパラフレーズすれば「のちに生まれたもの」には口酸っぱくこう言おう。「ぽまいは変われ。変われなかった、俺の代わりに……」
いやもうウンザリだ。20世紀最後の傑作小説『名付けえぬもの』のラストを涙ながらに思い浮かべながら、サミュエル・ベケットの偉大なる短編のタイトルを引いて筆を置こう「いざ最悪の方へ」。
追記
この立場の違いを考えてみたら、刹那・F・セイエイとマリナ・イスマイールの違いのようなものかも知れない、と思った。それはちょっと美化しすぎか