第一のワーク「ジャッジしない」
まず職場や電車のなか、道で通りすがりに出合う他者を見る時に確かめてみてください。
ある他者が「この人は…と考えているようだ。いや、そう考えているに違いない」または「この人は(見た目から)…な人物に違いない」と決定まで至った状態、これを「ジャッジした」と言います。
これがキリストやコースインミラクルなど様々なスピリチュアルが言う「ジャッジするなかれ、赦すことが全てである」と言うシンプルそうだけど何とも難解なワークにおける「ジャッジ」の具体的な内容ですが、まずその憶測、勘ぐりがスタートしたとしても、そうに違いない!と決断の前で踏み止まることが「ジャッジしない、赦す」の方法となるわけです。
この言ってみれば勝手なる判断、ジャッジメントが、なぜ重大な問題とされている理由は、それが「現実化」するためです。
もとの素のままのその相手に対し、観察者側の判断「そう考えてるに違いない、そういう人に違いない」というジャッジを重ね合わた「合成」が量子領域で起きており、観察+判断が行われていなかった段階の以前の他者とは別の存在をこの世に出現させることとなっている。
それは言わば他者との霊的まぐわい、肉体としての他者と自分側の内面との合成体とも言え、そのままの他者+憶測にすぎない人物像との間の子(アイノコ)とも言えるシニスター(sinister;我々が下すジャッジの内容は大概はネガティブなものであるため、邪悪なる者の意)ともいえる存在を生み出すことになっています。
またジャッジメントは他者を外部にいる物質的な肉体存在という「オブジェクト」として扱うことでもあり、そのフィードバックとして「外部と遮断され精神魂は皮膚を境界に肉体内に放り込まれ閉じ込められた物質的存在」が自分であるという致命的な誤認識と、分離してお互いそれぞれが物質として3次元的に存在しているという存在位置の誤認識も強化させてます。
この他者の思考や人格を憶測無しに見る→ジャッジなしに観る、より深い知性で観ずる「雪見」「月見」ならず「世見?」、contemplateする(精神的に見る)ことが、本来の自己、世界に帰還していく脱出法①なのです。
”numen 神の意志、神性、(キリスト教にとって)異教の神”という言葉は、"うなずき(=考えを肯定することによって表現される神の承認)”から来ています。このジャッジない他者の受け入れこそが創造主による一つの偉大なる行為であり、逆に言えば変更なきそのまま観る視座の獲得は素のままの他者、状況を登場、再誕生させることとなるため、言うなれば小文字のgod、神予備軍?としての創造行為者となるわけです。
※キリスト教を始めとする「一神教」は、神を外部存在と設定設置し中央集権的な体制を保持しているため、こういった本来の視座による創造行為を異教とし抑圧したわけです。
➕今後、そうは言っても相手の考えているであろう思考の想像、他者の心の憶測を止められない、外せない場合などのテクニックなども公開していきたいと思います!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?