田中翠香『サッカーとは特に関係ない日本代表お疲れ様百首』を読んで
ワールドカップで日本がドイツに勝ったことを記念して行ったアンケート結果によって、田中翠香さんが実景を詠んだ100首。
ちなみに自分はワールドカップは観ていないので「勝ったらしい」という事しかわかっていない。
朝の目覚めから出勤の景色を詠んだ連作となっている。
この冬の冷えを鍵にも感じつつ気持ちゆっくり閉める玄関
微細な感覚が丁寧に拾われている。「冷え」た鍵と「気持ちゆっくり」のスピード感の呼応のバランスが気持ちいい。まるで鍵に主体が共感しているようだ。翠香さんはこういう「何を感覚の起点とするか」を見つけて一首に設計するのが、非常に達者だと思う。
足の先引っ掛けぬよう爪先を排水溝の隙間で上げる
「そうだよな。上げるよな」と思う。誰もがやる行動だが、無意識な動作なので、言われるまで気が付かない。そういう行動や景色をフラグメント化して、歌として成立させているのが、今回自ら「実景縛り」とした一連の妙味だと思う。
本日もしたたかに生きる「ナショナル」の看板がある暗い電気屋
「ナショナル」と言われて、それがパナソニックだとわかる世代は30歳以上だろう。ナショナルと呼んでいた時代の松下電器には強さが感じられた。そういう「松下幸之助経営語録集」のような昭和の強さが、電気屋であるにもかかわらず暗い店内に、ずぶずぶと生き残っている。
連作では、戸建てやマンションがありつつも、閑散とした住宅地から商店街に景色が移っていく。
しかし100首は非常にボリュームがある。
通勤の時間を100首で詠んでいるというより、通勤の時間が無限に微分されているように、瞬間瞬間が切り出されている。
そして40首を越えたあたりで、果たして自分はどこへ連れていかれるのかと思う。
三件のケーキ屋があるその距離はおそらくわずか五十メートル
この辺で「果たしてこれは実景なのか?」という気持ちになる。どこまで行っても職場が見えてこない。実はこれは限りなく実景に似せた架空世界なのではないか。昔夜店にあった、回転する円筒形の背景の中を延々と歩くおもちゃの中にいるようだ。
通りからビジネスホテルのバイキング見えるけれどもあれはまぼろし
細部のディテールが細かく浮かび上がってくるが、街の全容は暗然としてわからない。
そういう翠香さんの作った世界の中で、ただただ無限に伸長する通勤時間を追っているように感じる100首だった。
クロアチアにも寂しさも切なさもあることでしょう 香りくる海
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