無言の放浪者からドラゴンの鳴き声へ

映画にはサイレント(無声)からトーキー(有声)へと進歩した時代がありました。
簡単に言いますと、サイレントの頃には音を映像に合わせることができずピアノが伴奏で行われていたり、途中で字幕だけが出るといったことがありました。しかし1927年初のトーキー映画のジャズ・シンガーが作られるとこぞってトーキーの映画が作られるようになり、サイレントは姿を消すようになりました。
それは自然的でもあります。
劇場に足を運び、大きなスクリーンに壮大な音楽、役者の紡ぐ言葉、それは当時として圧巻の一言であります。

何故このような文章を書こうと思うようになったのでしょうか。
それは、またブルース・リー熱にまた浮かされたからであります。

ブルース・リーの演技は他の俳優と違いどこか違うものを感じるのです。
指で顔をシュッと撫でるとき、こぼれる笑顔、怒るときの表情、端正な顔立ちから大きく表情が変化するからだと私は思います。

少し話を戻して何故、サイレントを話に持ち出したかです。
それはブルース・リーからチャップリンを彷彿とさせたからです。

2人とも表情が豊かです。
更にブルース・リーは武術で、チャップリンは感情表現で動きがダイナミックです。
映画の中にブルース・リーは中国人が差別されている事実を、チャップリンはその当時の社会性を大きく批判しています。

ここまで共通することを上げて今度は違うところを上げていく頃だと思います。
トーキーであること、映像がカラーであること、それはもちろん重要です。

特に私が注目していることはブルース・リーのあの独特な奇声にあります。
「ホァタァー!」「ホゥー!」「ホゥ!」・・・数えればきりがありません。
しかし、そこにはある種、試合のゴングのような意味合いを持つときがあります。
ブルース・リーを囲む人々、じりじりとした中で突然の奇声。
あるいは飛び掛かる人を払いのけるときの奇声。
静から動へと切り替わる瞬間でもあります。
それからはブルース・リーのターンであり、劇場の観客を杭付けにさせます。
これは多分ブルース・リーの成し遂げた偉業でもあるでしょう。

ではチャップリンはどうでしょう。
元々サイレントなので奇声など上げることができません。
しかし、「ライムライト(1952)」ではトーキーを取り込んでおり更に全くの逆のことを成し遂げています。
それはチャップリン演じるカルヴェロとその友人(バスター・キートン)の演技であります。
その前に全くうけていなかったカルヴェロのギャグをサクラの人たちが笑うというシーンがありました。
当然トーキーなので笑い声は映画に含まれています。
観客は無言で見ていたはずです。
しかし、そこからカルヴェロと友人が登場するとサクラの人たちの笑い声はなくなりそれどころかカルヴェロも友人も声を発さなくなります。
まさにトーキーの時代にサイレントで実際の観客の人を笑わせる大勝負に出たわけです。
これは動からの静だと思います。

彼らがなぜこのような境地に立てたのか、それは分かりません。
なるようにしてなったと言わざるを得ません。
ブルース・リーはブルース・リーですしチャップリンはチャップリンです。
とにかく彼らは完璧に役に徹したということでしょう。

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