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負債について――ニーチェ『道徳の系譜学』より

多分に気質的なものかもしれませんが、私は最近、やましさの感情に憑りつかれています。
やましさの感情を、別の言葉に言い換えると「負い目」であり、数値化すると「借金」です。
おそらく両者は、同じものを別の側面からとらえたものです。

ニーチェは『道徳の系譜』で、およそ次のように述べています(若干、パラフレーズしています)。

「負い目」「良心のやましさ」という意識は、「負債」という物質的な概念に由来している。
「犯罪者は刑罰に値する。というのも、彼は別様に行為することもできたからである」という発想は、極めて近代的である。人類の長い歴史を通じて、悪事の首謀者にその行為の責任を負わせるという理由から刑罰が加えられたことはなかったし、責任者のみを罰するといった刑法もなかった。
むしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対する怒りから刑罰は行われたのである。
この怒りは、損害には等価物があり、たとえば被害に対する報復がある、という発想へと次第に変容した。
損害と苦痛の等価というこの発想は、どこからその力を得てきたのだろうか。それは、債権者と債務者との契約関係からである。
この契約関係は、およそ「権利主体」なるものと同じ古さをもつ。この「権利主体」という概念は、売買・交換・交易といった行為を可能にする。
この債権者と債務者との契約関係において、初発の約束が為される。債務者は、自らの返済力を相手に信用させるために、また自らもうっかり返済を忘れないように、自分が占有する何かを抵当に入れる。たとえば自分の身体、自分の妻女、自分の自由、自分の生命などを抵当に入れる…。

このようにニーチェは、社会関係の基礎を、「交換」という平等性にではなく、「債権者と債務者」という非対称性に見てとります。
そうすると、文字とは、ツケ(後払い)を記録するために発達したのであり、記憶とは、借金の返済を忘れないことである。ニーチェ主義者ならそう言いそうですね。

もちろん私たち人類は不完全な状態で生まれてくる以上、乳幼児期において衣食住の世話をしてくれた親に対して負い目の感情を抱くことは、人類にとって初期設定みたいなものですよね。樹上生活時代~旧石器時代のごとく、負い目の感情が漠然とした負い目の感情のままに留まるのか、それとも有史時代のごとく、文字や画像などのメディアによって、それら負い目の感情が記憶に刻印されるかの違いはあるかもしれませんが、いずれにしろ負い目の感情から逃れられない点に変わりありません。

ただし、このように人類史を通じて、他人に対する負い目の感情が、文字や数値など操作可能な対象となりつつあることによって、弊害が発生するような気がします。
それは、世界に対する負い目を感じづらくなることです。

私たち人類は、物心ついたときからすでに、先代から受け取ったものと同じくらい、世界(自然環境)から多くを受け取っています。
おそらく、心で感じ続けることのできる負い目の総量には限度があるため、他人に対してあまりにも負い目を感じすぎると、世界に対して不感症になってしまいそうなのですね。

しかし、必ずしも悲嘆にくれる必要はないかもしれません。
たとえばCO2排出権取引などは、省エネ商品の買い替え需要喚起などを見るにつけ、経済を回すための新手の口実だと私は思っていたのですが、上述の考察を踏まえてみると、世界(自然環境)に対する負い目を金融化したものといえるかしれませんね。

現代の金融資本主義を、人類の宗教史という大きな流れの中に位置づける作業には、大変興味深いものがあります。
が、このテーマについて掘り下げると長くなりそうなので、今回は終わります。いずれ機会があれば考察してみますね(笑)
とりあえず参考文献だけ挙げておきます。


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