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【哲学漫談】 役に立たない遺産相続の話――デリダ『マルクスの亡霊たち』

(この記事は、デリダ『マルクスの亡霊たち』のパラフレーズです)


遺産相続って拒否できないですよね。
相続に同意したり拒否したりする以前から、私たちはすでに相続人であったし、物心ついた時から喪に服していました。ただし、それは食欲や性欲のような生まれつきの本能ではなく、私たちに課された厳命のようなものです。向うから「喪に服せ」って命令してくるわけですね。

どういうことかっていうと、まず何よりも私たちの存在は、相続するという行為のうちにあります。私たちはそれを証言することしかできません。証言するとは、《われわれがそこから相続する限りで存在している当の存在》を証言することです。私たちは、《証言を可能にする当のもの》を相続するのですね。証言は言語によって行われますが、言語とは、《自分がそうであるところのもの》を証言するために人間に与えられた最も危険な財産であるといえます。

「そこ」とは、父、または大地のことです。その意味で、私たちは生の後継者であると同時に、死の後継者でもあります。要するに、「The time is out of joint. 時間の蝶番が外れてしまった」ってことです。一見すると語義矛盾に感じられる「左派の伝統」というフレーズが想起されますよね。「左派」なのか「伝統」なのかどっちやねんっていう(笑)

マルクスは言いました、「亡霊がヨーロッパに取り憑いている。共産主義の亡霊が」と(『共産党宣言』より)。
シェークスピアは言いました、「われは汝の父の亡霊である」と(『ハムレット』より)。
二つのセリフを引いて、デリダは論じます。
『ハムレット』において、汝の父であると宣言する声に、私たちは従うことしかできない。この亡霊による厳命に対する服従が、初発に行われる。この死者の厳命に対する最初の服従が、その他すべての服従を規定する。ややもすると別の者が幽霊に変装しているかもしれない。あるいは他の幽霊が父の幽霊の振りをしているかもしれない、と。
でも、息子であるハムレットは、それが父親であるかどうか確証できません。父親であると自称するそれは、甲冑で身体を覆い隠しているからです。
ハムレットが幽霊の跡をついて行こうとするとき、ハムレットは「どこへ?」と質問します。「どこまで連れて行くつもりだ?」と。それに対して幽霊は答えます、「聞け。私はお前の父の霊だ」と。
この「聞け」という声が、大地に還った父からの厳命です。
ちなみに大地に宿るのが精霊で、死んだ父の記憶が祖霊です。いずれも神の一種ですね。
会話相手が死んでいたことにハムレットは途中で気づくのだけど、今さら会話を打ち切ることなんかできないですよね。その甲冑に情が移っているし、言語の使用を中止すると、今度はこっちが人間じゃなくなっちゃいそうですから。

その甲冑は真理を語る振りをしながら、約束させる振りをしながら、息子たちに依頼します。「約束を遂行するな」と。彼は誓約を破ることを誓約させます。「お願いだから誓わないと誓ってくれ。権利を撤回するという権利を行使してくれ。誓いというお前たちの能力を断念してくれ。お前たちは生まれつき宣誓不能であるのだから。要するにインポテンツ、日本語でいうと不具者なのだから。お前たちは淫売婦だ。お前たちは金でわが身を売り渡し、無頓着さにわが身をゆだねる。お前たちは、等価性(交換可能性)のうちに固有性と特有性を混同するのだ。クソ野郎が」と。
このように彼は、約束を守らないことを約束せよと懇願するのですね。

果して亡霊は活き活きとした過去から戻ってきた証言者なのでしょうか、それとも活き活きとした未来から戻ってきた証言者なのでしょうか。不明です。もしかすると、過去に将来を渇望されつつ早逝した幼子の亡霊かもしれません。でも甲冑で覆われているから、その姿形を確認できない。その意味で、共産主義はつねに亡霊的であったし、今後も亡霊的であり続けます。要するに、時間の蝶番が外れてしまったのですね。

さて、遺産の分割について掘り下げてみましょう。
相続の再主張において、クリティーク(分割・選択)が行われます。このとき有限性が条件づけられます。無限が遺産を受け取ることはできないし、無限そのものは相続されません。だから有限です。
くどいようですが、子らは当人の意思で遺産相続を主張したわけではありません。厳命に従ったまでです。
厳命は常に命じます、「お前が相続する全体のうちから、一部を選択し決定せよ」と。この遺産相続は、クリティーク(分割すること)によって為されます。その声は、同じ一度のうちに何度も、複数の声で語られることによってしか、一なる者(父なる全体)であることはできません。要するに、互いに競合する複数の要求(子らによる、異なった立場からの遺産相続要求)が不調和をきたし、ジレンマを織りなすことによってはじめて、遺産を保持する死者(父・王・神)は、全体であったことが判明するのですね。
罪は法に先行します。法が重視されるのは第二世代においてです。彼ら第二世代は、父の遺産を相続するよう運命づけられています。あらゆる神話が父の死をやましく思った子らによる解釈であり、その神話の中に法が埋めこまれている、といえばいいでしょうか。
父(死者)の後継世代が父の遺産を相続するとき、子らは、一つではない父の声(複数に分割された父の声、厳命する父の声)に対して釈明します。一者ではない父の声、無限でも全体でもない父の声、それら複数の声に釈明する子らの声もまた複数です。このように、父の複数性を反映して、子らの釈明の声が複数的であると意識されることによって、一つではない父の声は全体を構成します。この事態を指して、マルクスは共産主義の亡霊と呼んだのでしょうね。

「近代以降」でも「コロナ以降」でもかまいませんが、「○○は終わった」という終末論的な言説は、歴史に終止符を打つというより、ひとつの目印を付すといった方が適切です。私たちは目印以前の時代、たとえば「共産主義はオワコン」というときの「共産主義」の相続人であらざるを得ないのですね。死刑宣告を下した瞬間、その死者に憑りつかれるというわけです。

相続とは、負債の再設定のことです。負債の再設定は、つねにクリティーク(批判的・危機的・分割的・選択的)です。解消することのできない負債を、その何かを思考するとき、私たちはつねに、その何かに対して負債を負っているのですね。身も蓋もない言い方をすれば、「全てフィクションだ」ってなりそうです。とはいえ同じフィクションに絡めとられていると考えれば、今は亡き債権者はもちろん、ときに債務者でさえも現状維持を望むことは、至極当然かもしれません。結局のところ、借金漬けが一番楽なんですよね。

§ 書籍案内
ジャック・デリダ『マルクスの亡霊たち』増田 一夫 訳

あなたのグラスのてっぺんを、私のグラスの足元に。私のグラスのてっぺんを、あなたのグラスの足元に。ちりんと一回、ちりんと二回。天来の響きの妙なるかな! byディケンズ。Amazon.co.jpアソシエイト。