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さよなら、蓮見清一さん。


【訃報】蓮見清一氏(はすみ・せいいち=宝島社創業者、代表取締役社長)

(1)70年代の宝島・JICC出版局

宝島の蓮見さんが亡くなった。80歳。
私の恩人の一人である。長年、お会いすることも出来ずに、いつか改めて感謝したいと思っていたのに、自分の行動力のなさが情けない。最後にお見かけしたのは、10年ほど前に石井慎二さんのお葬式で、お見かけしたが大勢の人に囲まれていて声をかけられなかった。情けない。

蓮見さんとの出会いは、宝島(JICC出版局)の大西祥一と出会ったことからはじまる。私は、大学の途中で、ロッキング・オンの創刊に参加し、資金が足りないので日暮里の写植屋に弟子入りして写植を覚え、大学を中退して、写植屋をやっていた。大西が76年の年末に連絡をくれて、正月明けまでに写植を欲しいのでうってくれないかと頼まれた。当時は駒沢の自宅の押入れを改造して写植屋をやっていたので、そこに現れた。それで確か、正月の三が日に大西が写植を取りに来て、そのまま宴会になって麻雀になった記憶がある。

それがきっかけで大西と意気投合し、宝島の本誌で何かやらないかと相談され、当時「ロックというのは音楽の世界に閉じ込めていては意味ないので、社会全体がロック的にならないといけないのではないか。豆腐屋は豆腐を作ることでロックをやらないかぎり社会は変わらない」という認識だったので(笑)、世の中のいろんな仕事をやってる人にインタビューしたいと提案した。その企画が採用されて、宝島本誌で連載されることになった。

毎月数人にインタビューをして原稿にした。消防士、寿司屋の職人、アナウンサー、印刷工、営業マン、普通の仕事をしている人に、その職業のメリットとデメリットを聞くというコンセプトで会いまくった。渡辺さんと言う担当の女性がついて、アポとりまくって会いにいった。こういう仕事ははじめてだったので、ものすごく勉強になった。

その連載が蓮見さんの目にとまり、はじまったばかりの別冊宝島(ベッタカ)でまとめることにした。その時に、蓮見さんと飲むことになり、「100人インタビューしろ」と言われた。すげえ強引な人だなという感じだったが、その分、この人と一緒に仕事をすると頼りになるな、と思った。

「別冊宝島」は現在では2600号も出ているようだが、私の作ったのは「別冊宝島 11 みんなのライフ&ワークカタログ」。11冊目だ。一番最初のベッタカは、「全都市カタログ」で、これは北山耕平(小泉徹)君が作った。アメリカ西海岸で流行っていたホールアースカタログの日本版を作ろうとしたのだ。その後、「英語の本」がヒットしていた。

蓮見さんは、別冊宝島は、新しい時代の教科書を作るのだと言っていた。

「別冊宝島」という出版形式は「活字ムック」と呼ばれているが、大変な発明で、蓮見さんならではのビジネスセンスである。一般の雑誌は期間がくると返品されるし、書籍も売れなければ容赦なく返品される。しかし「別冊宝島」という独自の形態で続々、目先の変わったテーマで出したので、書店の中に別冊宝島のコーナーが出来てきたのだ。そうすれば、古い本も置いてくれて、過去にさかのぼって売れる。文庫本や新書本のコーナーは老舗出版社に占領されているが、独自の新しい文庫本や新書本を作ったような発明である。

書店と交渉してコーナーを作っていったのが、村上信明さんである。宝島を退社したあとも、出版流通評論家として、出版流通に関する貴重な本を出していった。

70年代はJICC出版局がメインのビジネスだった。JICCは、地方自治体が発行しているパンフレットや冊子などを一手に引き受ける編集プロダクションで、それまで地方自治体の印刷物は地元の印刷屋さんや編プロの入札で受注していたが、それを東京の会社が、入札にのりこんでいくのだ。「表紙は手塚治虫さんに頼みましょう」みたいな、地域の弱小会社では想像もつかないプレゼンをするのだから連戦連勝である。日本各地で支社を作っていった。

晶文社から「宝島」の版権と取次口座を引き受け、一般向けの出版事業を開始したが、思うように売れずに、当時の宝島編集部は、JICC出版局の居候のような立場であった。それが80年代になって、高度成長が終わり、地方自治体が支出の見直しを一斉にやって、自治体のパフレット予算が大幅に削られてしまった。蓮見さんは、事業のコアを行政向けビジネスから一般向けにシフトしたのだ。

(2)コピーライター

JICCのスタートは、三島由紀夫の市ヶ谷自衛隊の突入事件が契機である。その時、蓮見さんは、フリーライターの仲間たちと仕事をしていた。その仲間の一人が出版社からの過酷な締め切り要求が原因の過重労働で亡くなってしまった。そのことに怒った蓮見さんが中心になって、その出版社への抗議行動を行い、そのメンバーが設立したのがJICCだったと聞いたことがある。亡くなられたライターの未亡人はJICCの経営の中心にいた。

その未亡人は一橋大学の出身で、JICCが出来て人材をスカウトに母校に行ったら、ひょこひょこ歩いてきたのが大西だっというのも聞いたことがある。この辺は、今度、大西に聞いて確認とらないといけないかも知れない。大西も入院したので、早く回復することを祈る。

石井慎二さんは、蓮見さんの早稲田時代の一年先輩ではなかったか。
初期のメンバーで私が知っているのは、そのぐらいである。
関川くんは、まだ上智の学生だったはずだ。

蓮見さんが早稲田の革マル派の活動家だったというのは有名な話だ。その頃の大学にいて、学生運動にまるで無縁という人は少ないのではないか。蓮見さんは、1965年の早大闘争の頃から、武闘派で有名だったそうだ。私の友人や先輩は、早稲田で革マル派と対立していた反戦連合の人たちが多かったので、ポンプの編集長をやっていた頃、新宿ゴールデン街でJICCの関連会社にいるというと「俺は蓮見に殴られた。いつかぶん殴りたい」という人が何人もいた。 

そういえば、蓮見さんとゴールデン街にいったことなかったな。いつも、飯田橋のスナックのユダとかノンとかばかりだった。

蓮見さんは早稲田の革マル派のリーダーであると同時に、革マル派の理論的指導者である黒田寛一(クロカン)の秘書みたいなこともやっていたと本人から聞いたことがある。晩年のクロカンは視力を失っていて、書籍や論文を蓮見さんが読んで聞かせていたと。

そして、蓮見さんがクロカンの所を去る時に、「私は政治活動はやめます」と言うとクロカンが「これから何をやるのだ」と聞き返して、蓮見さんは「コピーライターになります」と答えた。その「コピーライター」の意味が通じなくて「印刷屋になるのか」と言われて困ったと、蓮見さんが飯田橋のスナックのソファで嬉しそうに語ったことを今でも覚えている。

革命家からコピーライターは、ものすごい転向だが、蓮見さんは「言葉の人」だと私は思っている。

「みんなのライフ&ワークカタログ」という別冊宝島のタイトルは蓮見さんがつけた。私は「みんなのライフワークカタログ」で進めていたのだが、土壇場で「&」をつけることにこだわった。この一文字を付けることで、書店店頭での見栄えや、コンセプトの広がりを得た感じがした。

蓮見さんは組織の指導者としても卓越した能力を発揮したが、個人として言葉の作品を作りたかったのではないかと、スナックの夜に思ったことがある。

(3)記憶のスクリーン

「みんなのライフ&ワークカタログ」がそこそこ売れて、次にやりたいことはなんだ、と聞かれて、「ロッキング・オンから音楽を外したような雑誌をやりたい」と言ったら、企画にまとめろと言われ、大西と二人で事業設計書を作った。大西は、あらゆる事態を想定した膨大なシュミレーションのリストを作った。それが全面投稿雑誌「ポンプ」である。

私は当時、ロッキング・オンの主力メンバーであり、有限会社たちばな写植の社長であったが、蓮見さんに「ポンプ」の企画を採用されて、宝島に入社した。正確には、蓮見さんが買収した現代新社という出版社の所属になった。現代新社はやがて洋泉社になり、消滅した。

ポンプのメンバーは、石井さんが当時やっていてフェミズムの雑誌「私は女」(ワタオン)の編集部にいた山崎浩一がインドに行くというので、代わりに写植を取りに来た、山崎くんの早稲田漫研の先輩である松岡裕典と知り合い、彼を巻き込むことになる。その関係で早稲田の漫研の連中との交流がはじまった。ポンプのロゴは山崎浩一が作った。

私は78年から3年間、ポンプの編集長を勤め、駒沢から飯田橋まで通勤していた。その間、頻繁に、蓮見さんたちと行きつけのスナックに行っておしゃべりした。

80年代前後の宝島周辺には、さまざまな若いクリエイターたちが集まっていた。宝島からジャンプして有名になった人もたくさんいる。蓮見さんは、才人が好きだった。人の素質を見抜く力があったのだろう。そして、組織の管理者としても、尋常ならざる能力を発揮した。コスト管理には厳しいが、単なる守銭奴ではなく、使うところではとんでもない費用を支払う度量の大きさがあった。私は、当時、蓮見さんはいつか国政に出て、政治家になるのではないかと思っていた。なんとなくイメージがコンピュータ付きブルドーザーと呼ばれた田中角栄を思い浮かべた。

私の最初の単行本である「企画書」もJICC出版局で蓮見さんが出してくれた。しかし、私が、その本を契機に、ロッキング・オンも写植屋もポンプも全部辞めると宣言した時に、蓮見さんは、怒ったのだと思う。それまで、ポンプを発行してくれて、可愛がってくれていた人間が去るということを、許す人ではなかったと思う。それは個人的な感情よりも、組織の論理として組織を裏切ったことになるからだろう。「企画書」の印税は所属社員だということで、半額に削られた。

私が蓮見さんのところを離れてからの宝島の発展ぶりは、外から見るしかなかつたが、蓮見さんの打つ手がいつも見えた。凄い政治家だと思う。取次の窓口の人が言っていたが、宝島の営業だけが、「今、どんな雑誌が売れてるのか」「何が流行しているのか」ということを必死に聞いてくる、と。そこにも蓮見さんの作った組織の強さを感じた。

宝島は今でも面白い人材が集まっているのだろう。それは雑誌を中心にやってきたからだと思う。作品主義の書籍出版社と違い、雑誌は時代のあらゆる先鋭的な部分とつながっている必要がある。そうして集まった人からの情報と感性を蓮見さんが吸収して、組織を大きくしたのだと思う。

蓮見さんの大学時代の仲間だったのだろうか、田中基さんというJICCの客分のような人がいて、彼は、民族学・考古学季刊誌「どるめん」という雑誌を出していた。リュックサックに「どるめん」を詰め込み、考古学学会の入り口で売るんだ、と言っていた。そういう地道な活動をしている人にも蓮見さんはサポートしていた。

「ポンプ」をやっていた時に、JICC全体の印刷管理をやっていて、印刷会社との値引き交渉では鬼のように活躍していたが、「ポンプ」編集部が好きで、よく遊びに来ていた大久保さんという人がいて、彼は、80年代になって急成長したアスキーに転職した。若い会社なので印刷管理をできる人材がいなかったのでスカウトしたのだろう。努力家の彼はやがて頭角を現しUNIXマガジンの編集長になった。

蓮見さんの訃報を聞いて、80年前後の飯田橋の空気を思い切り吸い込んで、当時の人たちの顔や気配を思い出した。蓮見さん、会いに行かなくてすいません。また楽しい企画を思いついたら、スナックで、相談にのってください。

謹んでご冥福をお祈りいたします。

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