見出し画像

追悼・小谷正一さん


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

標題=追悼・小谷正一さん

掲載媒体=メモ

執筆日=2000年春

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 僕が20代の頃、僕には、僕の先を走っていく先輩と、ずっと先に存在する年寄りたちがいた。彼らはいつまでも少年のようなみずみずしさを保ちながら、真剣な迫力というものがあった。僕は、そうした先輩たちに「評価」されたかったのかもしれない。先輩と後輩という関係は、80年代(僕が30代)になってから、急速に消滅したようだ。すべてが同輩になっていった。

 子どもの頃、僕の生まれた新宿の下町には、ガキ大将というのがいて、路地裏遊びなどはこうした地域の先輩から継承するものであった。僕らは先輩から継承されたが、僕は次の世代に伝えていない。テレビがはじまったから、みんな学校から帰ってくると路地裏に出てこなくなってしまったからだ。テレビは人間関係のヒエラルキーを破壊し、すべての視聴者を同質な「友だち」にしてしまった。

 小谷正一さんに出会ったのは、1979年だったと思う。僕は小谷正一の名前を知らなかった。友人の坂本正治さんが、TBSの前にあった小谷さんの事務所に連れていってくれた。温和な笑顔の中に、針金のような筋を持った、大阪弁の小柄なじいさんであった。

 当時は僕は全面投稿雑誌の「ポンプ」という投稿雑誌を作っていて、坂本さんは、その本を書店で見て、突然編集部に現れた。坂本さんのことは別な機会に紹介するが、戦後メディア界の異端児中の異端児で怪物である。それで、当時、坂本さんの師匠みたいなものが小谷さんで、坂本さんが「ポンプ」を小谷さんに紹介してくれた。

 小谷さんは「いろいろと調べてみたが、ここまで全部、投稿だけで作られた雑誌というのは世界中になかった。君はフロンティアだから、頑張れ」と僕に言ってくれた。その言葉は嬉しかったが、小谷さんの正体は何もしらなかったので、あまり重みは感じなかった。それに僕たちは、自分たちにとって必要なメディアを作ろうとしていたので、別に、世界最初などという意識はまるでなかった。でも、なんだか、「子どもの遊び」を「ちゃんとした大人」が誉めてくれてようで、心強く感じたことは確かだった。

 周辺の人や、書籍などで、小谷さんのことを調べた。すぐに、こりゃあ、とんでもない人だということが分かった。戦後のマスコミの枠組みそのものを作った人だったのである。しかも、マスコミの各業界のそうそうたる人たちが小谷さんのことを尊敬しているのに、世の中の人で小谷さんのことを知る人は少ない。そういうスタンスの取り方も、僕は気にいった。

 僕の知ってる範囲で戦後の小谷さんがやってきたことを紹介してみよう。

 まず、新聞のフォーマットというのを作ったといわれている。確かに、戦前までの新聞は、一面は活字だけらけだが、大きな写真でドーンとあって、100号活字で見出しがあるというスタイルは戦後のものだろう。これは、大阪毎日新聞の時代に小谷さんが作ったと聞いている。

 次に、日本で最初の「イベント」というのをやった男である。

 これは有名な話なのだが、大阪毎日の編集局長時代に、「毎日新聞」という言葉を「朝日新聞」に掲載したいと思った。それで、当時、甲子園球場に四国から牛を連れてきて「闘牛大会」というイベントをやった。人が集まって事件になるから、朝日新聞も、毎日新聞主催のこと出来事を記事にせざるを得なかった。これが日本でのイベントというもののスタートだとされている。まだ無名の井上靖が、小谷さんをモデルにして「闘牛」という小説を書き、芥川賞を取る。

 そういえば、いつだったか、小谷さんの事務所にいたら、名前は忘れたが、文芸評論家がきて、井上さんと小谷さんの関係をヒアリングしていたことがあった。

 新聞の世界で名をはせた次は放送である。ちょうど、大阪毎日放送という民間放送がスタートする時代で、小谷さんは(たぶん)最初の民放の編成局長になる。これは本人から聞いたんだけど、彼はグラフ用紙を買ってきて、1週間分の番組表を全部一人で作った。500の番組だった。今のテレビ番組表の骨格を作ったのだ。

 マスコミの先輩などに小谷さんのことを聞くと、「常に500のアイデアを持っている男」というのが、定番であった。確かに、とんでもないアイデアマンであったのだが、500のアイテアというのは、この500の番組のことなのではないだろうか。

 つまり小谷さんは、戦後の新聞のスタイル、放送のスタイルを最初にデザインしたのである。僕は何もないところに最初に絵を描く人間を尊敬する。加工する技術や維持する能力も大変だと思うけど、ゼロから造物する力は、もっと神秘的であるから。

 戦後のマスコミ界には、それぞれボスがいた。新聞には新聞の、放送には放送の、出版には出版の。ところが小谷さんは、あらゆるメディア業界の先駆者でありボスであった。こんな人は小谷さん以外には存在せず、しかし、決して、偉そうな態度はなかった。僕みたいなガキに対しても、普通に、ほんとに普通に対応してくれた。

 小谷さんの業績は、まだまだたくさんある。

 新聞・イベント・テレビのプロトタイプを作ったあとは、広告の世界に入る。いわゆるSP(セールスプロモーション)だ。60年代から70年代にかけての、高度成長とともに発展した、日本の消費社会・広告社会の中で、電通PRを舞台にした、小谷さんの役割は大きかった。例えば、銀座のソニービルがあるでしょう。あそこの入り口のところで、いろんなイベントやってますよね。今では、銀座の風景になじんで、当たり前のようになっているが、あれだった、最初は、誰かが仕掛けたのである。小谷さんである。社会全体をメディアの舞台として認識した、最初のメディアマンだったのである。

 そして、大阪万博である。小谷さんは住友館とか、いくつかのパビリオンのプロデューサとして名前が残っているが、行政的な仕掛けが堺屋太一氏だとしたら、内容的な仕掛けは小谷さんの仕切りであろう。その後、「小谷正一になりたかったプロデューサー」は、たくさん出てきたが、どれもうさんくさく、電通の枠の中で利権を貪ろうとした者しか出てこなかったように思う。なによりも、人間的な吸引力の凄さは、小谷さんにかなわない。

 僕が、マスコミの中で尊敬するに値する先輩たち。例えば、講談社で少年マガジンの黄金時代を作った内田勝さん。内田さんと戦後編集者の双璧と呼ばれた、マガジンハウスの木滑さん。ニッポン放送の社長になった亀淵さん。テレビマンユニオンを作った、村木さん。僕が、メディアの世界で動いていきながら知り合えた、こうした先輩たちが、すべて、若い頃、小谷さんに可愛がられていたことを知ると、その懐の広さと、指向性の近似性を感じてしまう。そして、なによりも、僕の80年代の最高の同志であった現代ヨガの山手國弘さんと小谷さんが、戦後初期から仲間であったことも、あとで知るのである。

 僕の処女作は、1980年に出した「企画書」である。最初の出版パーティを外苑のレストランでやってもらった。幹事は、当時、文化放送にいた常行邦夫さんと、放送批評懇談会にいた小見野成一さんであった。この2人は、同世代であり、連絡をとりあって、次代のビジネスを模索していたとろだった。常行さんは、その後、J-Waveの立ち上げに参加し、編成局長になり、その後、京都FM、名古屋FMなど、FM局の立ち上げに奮闘する。

 放送批評懇談会(放懇)は、放送局各社の団体で、こういう組織をとりまとめるのは小谷さんしかいなかったので、理事長になった。僕と放懇との関係は、小谷さんとは関係なく、70年代末にスタッフであった小見野さんがメディア業界の若手の連中に声をかけて、飲み会みたいなものをやろうということで、集まった。よく四谷のスナックなどに集まったものだ。いろんな放送関係者と面識が出来た。僕は、数年に1度くらいだけど、民間放送連盟などの番組コンテンスの審査員とかをやってきたのだが、だいたい、ここでの関係で推薦されることが多い。

 そうした放送関係者にとって、小谷正一という名は、はるか天上の輝きであった。みんな、小谷さんのことを語る時に、何か、自慢気に、誇らしげに語る。

 最初の出版パーティというのは、気恥ずかしいものである。

 まだデビューしたての椎名誠さんが挨拶してくれて「橘川くんの本は、企画書ということですが、これは3部作にしていただきたい。次作は見積書、その次は請求書、ということで」と、軽妙な語り口の中に、商売のヘタは僕への批評をからめたスピーチをしてもらった。

 小谷さんにも、出版パーティの案内を出した。そしたら、パーティの前日に現金書留が届き、会費と手紙が入っていた。「ぜひ参加したいがヨーロッパでの仕事に行くので、参加できない。会費だけでも参加したい」と。常行さんと僕は大きなため息をついた。常さんは「こういうことって、出来そうで、出来ないよね」と。実際、その後、僕が小谷さんのような立場になったことはあっても、そこまで丁寧に関係を大事にすることは出来ていない。僕は、自分で作った本を、その都度、小谷さんに送ったのだが、必ず、葉書で感想文が届いた。「キツカワくん、今度の出版は、ヒット性のライナー。うまく抜けていくとよいですね」とか、暖かい言葉を返してくれた。こういうコマメな態度は見習わなければいけない、と思いつつ、なかなか実行できていない。

 小谷さんは、90年のはじめに、なくなった。

 横浜のお寺で、そうそうたるメンバーが集まっていた。

 僕は、お分かれをいいながら、悔しさを味わっていた。

 小谷さんは、デジタル時代に入って、メディアのキーマンとして、世界中から注目された人である。しかし、デジタルメディアの世界には、かつての出版・放送・映画・広告の世界にいたような、人間性あふれるメディアマンは少なかったように思える。外側からしか見えていないが、デジタルメディアの中での小谷さんは、振り回され、傷ついていたように思う。しかし、インターネットの環境こそが、500のアイデアを持ち続ける男・小谷正一の仕事場になりうるはずだったと思う。

 人は、自分の時代しか生きられぬ。それは悔しいことである。

ここから先は

7字
橘川幸夫の深呼吸学部の定期購読者の皆様へ こちらの購読者は、いつでも『イコール』の活動に参加出来ます。 参加したい方は、以下、イコール編集部までご連絡ください。 イコール編集部 <info@equal-mag.jp>

橘川幸夫の深呼吸学部

¥1,000 / 月 初月無料

橘川幸夫の活動報告、思考報告などを行います。 ★since 2016/04 2024年度から、こちらが『イコール』拡大編集部になります。…

橘川幸夫の無料・毎日配信メルマガやってます。https://note.com/metakit/n/n2678a57161c4