ブック駅伝・夢と祈祷師/鈴木清順
本のリレー紹介が、何人かの人から回ってきた。私は次につなげないので、私に紹介してくれた人は、別の人に声かけてください(笑)。私が誰かにつなげても、すでに、とっくに誰からか来てるはず。友達は大切だが、友達の友達の輪は嫌い。
10代後半から30歳まではよく本を読んだと思う。30歳になった時「本は読むものではなく、書くものだ」と決めたので、新刊はあまり読まない。僕の読書はたぶん、普通の人の読書の意味合いとは違う。20歳ぐらいの時に読んだ谷川雁の本で「私は文章を読んできたのではない。文体を読んできたのだ」というようなのがあって、戦慄した。私もそうだったからである。本を読む時、一番、関心を持つのは内容ではなく文体であった。なぜかというと、自分が書く時に使える技術だからだ。本の内容よりも、文体に惹かれた。つまり、すべての本は詩集だと思って読んでいたのだ。30歳になった時、文体を読むこともなくなり、内容は自分で考える方が面白くなったので「本は書くもの」と決めた。そして私の本もすべて詩集だ。
これは写真も同じで、ある時期、たくさんの写真を撮ったが、それは作品でも記録でもない。自分がいつか使える素材としての風景や被写体を撮っていった。自分が使えなければ、どんな本もどんな写真も意味がないと思ってたわけだ。
鈴木清順の映画は、「けんかえれじい」をはじめとして、たくさん見た。昔、池袋文芸坐で「鈴木清順作品5本立て」みたいな上映会があった。まさに、映像の詩であった。彼の「花地獄」という本を学生時代に読んで、そのアクロバットな言葉の使い方と映像のように流れる文体にいかれた。
30歳の時に、自分が持っていた本とレコードを、若い奴ら集めて、ぜんぶあげてしまった。「花地獄」も誰かが持っていった。その次に出した「夢と祈祷師」だけが、事務所に残ってた。
「その時私は人が殺せる、と感じた。花をむしりとるようないぎたなさではなく、嫋やかに人が殺せる、と思った。父が死んだ時に。」
こういう感じの内容と文体。関東大震災も戦争も体験した人たちの内面の地獄を若い自分はこわごわと見ていた。
読書というものは、人に誇るべきものでも、何かを指し示すものでもない。
一人の奥の方にしまわれている凶器のようなものである。
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橘川幸夫の深呼吸学部
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