竹場

追悼・竹場元彦(たけば・ゆきひこ)



1.ロッキング・オン初期メンバー

 2018年の11月、竹場元彦が亡くなった。70年代中期に出会い、80年代初期に僕がロッキング・オンを離れてからは、連絡もなかった。噂では、高級オーディオの高級ケーブルを輸入販売する仕事をしていると聞いた。音にこだわる竹場らしい仕事だと思った。

 30年ぶりに、Twitterで再会し「会おうか」と声かけたが、大病で余命数年と宣告されていて、家から出られないということだった。それでも、TwitterやFacebookでは、相変わらず不思議な文体で、ラジカルな視点を深掘っていた。

 ロッキング・オンは、渋谷陽一、岩谷宏、松村雄策、橘川幸夫の4人が中心になって創刊した。他にもいろいろいたが、発行が続けば続くほど苦しくなり、消えていった、その代わりに新しい協力者も、雑誌を見て会いに来てくれた。4号くらいで、デザイナーの大類信が参加してくれて、それ以後、ロッキング・オンのデザインの骨格は大類が作った。

 投稿もたくさん集まったが、レギュラーになったのは少ない。女性の山崎由美子さん、東大法学部の学生だった滑川海彦、そして、10代の竹場元彦が仲間になった。レギュラーになるというのは、仲間になるということであり、ライブに行ったりメシ食ったり宴会やったりした。

2.ジェーン・シバリー

 体調の悪い竹場が最後まで頑張ったのが、ジェーン・シバリーさんの日本公演だ。彼女は、生命科学の研究者だが、80年代に音楽の世界で成功したが、90年代になって、すべての資産を売却し、自分の楽曲の権利を買取り、ホームレスのようになり、世界中で呼ばれればミニコンサートを開くというライフスタイルとして生きている。竹場から聞いた話だから、勘違いもあるかも知れないが、とにかく、ジェーン・シバリーの曲を聞いてくれと言っていた。そして、竹場は日本にジェーン・シバリーさんを日本に招致することになった。

 そのコンサートを自分で聞くこともなく、2018年の暮に逝ってしまった。翌年の1月3日、目白の「ゆうど」でジェーン・シバリーさんのライブに僕は行った。30人ぐらいの古い民家のライブハウス。シバリーさんは、丁寧に言葉を扱っている。途中、観客の方から通訳やってくれる人が出て、シバリーさんの思いを翻訳。音楽の世界で、これだけ誠実に生き続けることだけで感動。このイベントは、竹場元彦と、ゆうどの今井芽さんが共同企画。

 シベリーさんが「竹場さんが一番好きだと言ってくれた曲で、竹場さんを追悼します」と歌ってくれた曲が、あらゆる意味で染みた。僕にとっては、このライブは、竹場のお葬式。

 ライブの前に、多田君枝さんと旦那さんと目白の駅で待ち合わせ。多田さんは、彼女が高校生の頃からの僕の読者で、今は「コンフォルト」の編集長をやっている。今回のチケットの申し込みが竹場のメールに届いてしまったようで、おかしいなと思ったら、多田さんが、ゆうどの今井さんと旧知ということで手配してくれて、行けるようになった。多田さんの旦那も編集者で、話していたら、旧知の仲俣暁生くんや柳瀬博一くんともつながっているようで、業界話で盛り上がる。

 そして、ゆうどの今井さんも、聞いてみると、マーケティング・コンビナートの今井俊博さんの娘さんなんだと分かる。今井さんは、60年代末に、セゾンのコンセプトワークをやった人で、マーケティング業界の先輩で、90歳でご健在。メンバーの女性たちが作った、くれいん館にはよく行った。こちらは下中直人くんつながりでもある。いやはや、とんでもなく、人脈が交錯した夜であった。くれいん館にいた、今井くんは、芽さんの弟だった。80年代の懐かしいマーケの時代だ。

 ライブ終了後、シベリーさんと交流の宴会だったのだが、僕の眼の調子がいまいちなので、お先に失礼した。シベリーさんのステージの前にやった、ちんどん屋のパーカッションの松本ちはやさんも、よかった。

3.70年代の頃

 竹場は、開成中学の頃に、ロッキング・オンに出会った。彼は、開成はじまって以来の反逆児と言われていたらしい。坊主、短髪が当たり前の超進学校で、肩まで伸ばしたロングヘアーで通学したのだから。当時は、千代田区の隼町に住んでいた。「あんなところに住める場所なんかあるのかよ」と言ったことがある。

 ロッキング・オンの創刊メンバーは岩谷宏をのぞいて、橘川・渋谷・松村とだいたい同じくらいの世代だった。竹場は、それより年下だったので、弟扱いしていたのかもしれない。よく僕の家にも遊びにきて、本などを持っていった。

これは、1975年の頃にロッキング・オンに僕が書いた、編集室日記。当時の雰囲気が残っている。

編集室日記/ロッキングオン16号(1975年)
1975/05/25

○月×日 日本のマークファーナーといわれている竹場元彦が率いる<薔薇卍>というグループが、マザー牧場でのロック・コンテストに出場。80グループ中一位となった。ついでに○月×日、三越屋上で優勝者発表ステージにも登場。(何んか、ウルトラマン大会みたい)

○月×日 渋谷、第3チャンネルに登場。最初声だけ流れて、<あっ、これで終りだ>と大笑いしたところ、しばらくして、下ぶくれの顔をした渋谷が画面に登場。本人いたって不満気で、カメラアングルが悪い、とかグチる。

○月×日 RO始まって以来、通算8回目位の編集会議。ああ、全くいいかげんにやっとるなあ。大体スタッフが全員集まる事さえ月に一回位しかないのだから。テキトウに相手を非難した後はスシ屋で酒。主な編集議題は女の子。

○月×日 山上たつひこが練馬でキャベツ盗んで捕まったって新聞に出てたよ、というデマが編集部内に発生。誰だ発生源は。

○月×日 橘川の<ファウスト・テープ>を持ってっちゃった人、返せ、と橘川がワメいてるよ、何しろ、いつの間にかこのレコードは中のレコードで一万円の値段がついとる。

○月×日 渋谷が生活苦のために戸越で小中学生相手の学習塾を開講。なお彼は現在、赤羽でも塾をやってる。弟や妹で入学者希望の方は渋谷まで連絡して下さい。

○月×日 岩谷、サラリーマンを退める。当分は子守り専業。渋谷は心配してるが、本人いたってサッパリしたもの。ローリング・ストーンズの翻訳だけで食ってけるのかしらん。

○月×日 受験のシーズンで、読者もアチコチで悲喜こもごも。まあ、あんまし気にしない事です。渋谷の弟、橘川の弟、それぞれ中学へ。兄貴の二の舞を踏まないように。

○月×日 松村、みんなから<おまえの原稿はゴキブリ以来つまんなくなった>と責められてイジける。酒を飲んではワケの分んない事で電話してくる。最新情報によると、新宿プロレス研究会の一同は11PMにてマッハ文朱と世紀の死闘をやる事になったらしい。(未確認)

○月×日 岩谷「ROはガロみたいでアカンな、少年マガジンにならなくては」

(編集室長 橘川幸夫)
*ちなみに、戸越で渋谷が学習塾やったというのは、僕の義弟の小林秀樹が先生。


4.ネットの竹場元彦との再会

 30年ぐらいの空白があって、ツイッターで竹場と再会した。子どもの頃は、学校や社会に反抗するガキだったが、ネットの中でも、相変わらず、いろんな人に噛み付いていた。文章、文体は、相変わらず天才的だった。

竹場元彦
線を引くのはキライ。心優しいヒトもキライ。第二次世界大戦はまだ終わっていない、と思いながら生きています。

竹場元彦
僕の知る限り、音楽業界で成功する人は、音楽を知らないし好きでもない人が多いかな。思い入れ・思い込みがない分、純粋にメリットを分析し判断できるのかもね。そういう構造的な体質が、音楽業界を良くしているとは言わないけどね。

竹場のツイートは、こちらで。

 竹場は、永遠の反抗児だったのかも知れない。子どもの頃は学校や漠然とした社会に対して反抗したが、成長してからは、具体的な人物や制度に対して怒りをぶつけていたような気がする。

 ネットにネトウヨが増えたのは、右傾化ということではなくて、綺麗事でずるく生きていてる旧来の左翼や文化人に対する嫌悪感だと思っていたが、
竹場のTwitterを見て感じたのも、そういう憤りである。

 反原発のデモやってる若者を竹場は攻撃していたが、「おまえだって、開成始まって以来の反逆児だったろう」と言ってやったことがあるが、あの頃の反逆に比べたら、今の若者の反抗は、存在を賭けていない、サラリーマン的な行動に見えたのかも知れないし、むしろ竹場が一番嫌っていたものなのかも知れない。

 2017年に、竹場が突然、僕の事務所に現れた。太っていて、最初は分からなかった。80年から会ってなかったので、お別れに来たのだろう。

日和写真

 弟のような竹場元彦に、もっと何かしてあげたことがあったのかも知れないと、思う。先に死んでしまう人には、みんなそう思う。長く生きるとは、そういう歯がゆさを飲み込みながら生きることなのだろう。

 竹場、またな。

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