日常の不確かさと確かなこと
人生最期の日もくだらないことを考えていたい。例えばくだらないこととは、子どもたちと意味不明な言葉だけで会話するとか。ひたすら猫の顔マネをするとか。通りすがりの人の今日食べた物を勝手に想像するとか。上達したところで何になるの?と他人から言われるようなことをひたすらやり続けてけらけら笑っていたい。だけどそう簡単にはいかないのが、人生というものなんでしょうか。
ここ数日生きた心地がしなかった。
というのも、軽い気持ちで子を近所の病院へ連れて行ったら耳を疑いたくなるような病名の可能性を告げられ、あれよあれよという間に大きい病院へ紹介となった。結果、経過を見ましょうということになったのだが、検査までの間どうやって生きていけばよいかわからなくなった。
これまでにも我が家の子たちは、何回か入院や手術を経験してはいるのだが、決して慣れるものではない。案の定慌てふためき、面白いくらいに食事が喉を通らなくなり、眠れなくなった。私がしっかりせねばと思うほど涙がぶわっと噴き出してくる。居ても立っても居られずおろおろする私は、こんな時ばかり都合よく神頼み。見えない脅威に怯えては、空に向かって見えない神様に「どうか」と手を合わせすがる毎日だった。目に見えている日常ってこんなにも不確かなものなのかとつくづく思った。そんな自分の弱さを痛感しながら、くだらないことを楽しむ余裕すらなくなっていることにはたと気づく。やばい、やばいよ。私。そう思って家の中を見渡した。すると、夫はいつものように飄々と麻雀のゲームをしていた。その横では息子が全裸でアンニュイな創作ダンスを踊っている。せめて服は着てほしいけど、息子のポリシーらしいから仕方なし。いつも見ている家族の風景を前にして、いつもと同じってこんなにも安心するものなんだなと思った。
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