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探偵になるまでの2,3のこと ⑲
母さんが意識を取り戻した。白いベッドの上で手を伸ばし、ぼくの手に重ねた。
「よかった、無事だったのね……りょうま」
弱々しくてのどにからんだような小さな声。
点滴のカテーテルにつながれた母さんの様子は痛々しかった。できるだけゆっくりとぼくは言った。
「二度と意識が戻らないんじゃないかと思ってた……」
「心配かけて……ごめんね」
「安心して。ここは大学病院だよ。入院中は安静に、だって」
ちょっと笑ってから母さんの目じりの涙をティッシュでぬぐってやった。
「すぐ人を呼ぶから」
枕元のナースコールを押すと、五分も待たないうちに、白衣のすそをひるがえして灰色の髪の毛の医師と看護師さんがやって来た。母さんを見るなり真っ先に「よかった。顔色もいい」と明るい目をしてうなずいた。
担当の看護師さんは点滴のカテーテルを確かめ、バイタルを表示する機械の数字をクリップボードに書き込んでいる。
ぼくがぼんやり母さんをながめていると、医師がささやいた。
「あの動画はわたしも観たよ……あんなひどい連中がいるなんて、情緒的につらい映像だった」
ほんの一瞬声をつまらせてから、吐息をつく。それから気を取り直したように、気さくな表情でぼくにうなずいた。
「あれだけの騒ぎで君自身は浅い擦り傷ですんだのは幸いだったね。まあ、少し風邪をひいたようだが」
「父さんが守ってくれたような気がします」
それからお医者さんは表情を引き締めて念を押した。
「だけど、今後は絶対に無理しちゃだめだ。約束できるね?」
まるで、ぼくがちょっと目を離すと無茶ばかりすると思い込んでいるみたいだ。
もっとも、ぼくは身体よりも気持ちの方がくたびれていて、うなずくのが精一杯だった。
逮捕されたあの二人、永沢光江と豊田久巳がどうやって事件を起こしたのか?
「たいくつだろうから、何か持ってくるわね」
看護師さんは親切だった。ぼくの母さんが同じ看護師という職業だからかも。
「退院した人が残していった、小さなラジオがあるの。これを聞いて休んでいてね。付き添いの息子さんにはコミック雑誌なんかがいいかしら」
はい、と返事をすると、お医者さんも看護師さんもそっとほほ笑んで出ていった。
ラジオのスイッチを入れて周波数を合わせると、台風十一号は通過して温帯低気圧になっていると告げた。いまは東北地方にかかっているという。
母さんを乗せた車いすを押して、病院の中庭に出たのはその翌日だ。晴れた空の下で植え込みの緑が輝いていた。
「三加茂さん……ですね?」
声をかけられて振り返ると、お葬式に出席するような黒いスーツを身にまとった女の人がいた。年頃は母さんと変わらない。でも胴回りも顔もまん丸くて、背が低かった。髪をものすごく短く刈り込んでいる。
ぼくが車いすを回してその人に向き直ろうとするのを押しとどめるように、足早にその人の方が正面へと移動してきた。
「はじめまして、三加茂センター長の補佐をしておりました黒田圭子です」
深々と黒田さんが頭を下げた。せかせかとした早口がクセなのか、その口調で続けた。
「もっと早くお会いしたかったのですが、会社での対応で多忙を極めておりましてご挨拶が遅れました。わたしの名前で奥さまが呼び出され、豊田久巳に拉致されたあげく、息子さんも再びわたしの名前を使った永沢光江に捕まって……。この度の事件は本当にお気の毒でした」
ご愁傷さまでした、と言うんじゃないかとドキドキした。つまり、父さんについてご愁傷さまでした……と。もしそんなことを言ったら、否定してやる。父さんが殺されたと決まったわけじゃありません……って。
「こちらこそはじめまして」
母さんが右手を差し出して黒田さんと握手した。ぼくも頭を下げた。
「新任早々、三加茂センター長にはとてもご苦労をかけてしまいまして。仕事ではお世話になっていたのです。いまも悔やんでおります。……鷲尾麻美さんがつらい立場にあることに、わたしが充分に対応できていれば、三加茂センター長が豊田久巳の悪意の矛先にさらされることはなかった……。三加茂センター長のご受難は、もしかしたらわたしの身の上に降りかかっていたかもしれない……。そんな風に考えると犯人が捕まったとはいえ気持ちが休まることがありません……。なにより、センター長が失踪された時点で奥さまと直接顔を合わせていれば、せめて電話でお互いの声を耳にしていれば、呼び出されもせず危害も加えられなかったのではないか、と胸を痛めております。……たぶん、一生、この後悔を抱えるだろうと思います」
「ご自分を責めないでください」
車いすの上で身じろぎし、母さんは黒田さんをいたわった。
「想像を絶する、ずる賢い犯罪者に翻弄されたのは、誰のせいでもありません」
「退院されましたら、また改めてご自宅の方へご挨拶に寄らせていただきます」
再び黒田圭子さんは深々と頭を下げ、やがて中庭を去って行った。
もう十月だ。
涼しい風がまだ色づかないモミジの枝を揺らしている。足元ではシュウメイギクが花びらを開いていた。
ベンチに腰かけた母さんのもとに、黒田さんと入れ替わりに服部警部補と奥田巡査が連れ立って現れた。
「ずいぶん回復されたようですね」
「おかげさまで……ありがとうございます」母さんが頭をさげる。「明日には退院できそうです」
がまんできなくなって、ぼくは質問した。
「チャンスマートの駐車場で母さんを襲ったのは、やっぱり豊田久巳ですよね」
二人の警官は目くばせした。奥田巡査がうなずいた。
「君が推理した通りだったよ。家に人がいなくなったら、近所の空き家『山田』家にひそんでいた永沢光江が行動を起こす手はずだった。でも、良真くんがいたから動けなくて。……一方の豊田久巳はあらかじめチャンスマートで待機していたんだ。三加茂家に留守番がいるという永沢光江からの電話を受けて、『三加茂氏の自宅パソコンに悪質なデータを入れる計画は取りやめよう』と豊田久巳は言った。だけど、予定変更を永沢光江は拒んだんだ。やむなく豊田久巳はコンビニの駐車場でさつきさんを拉致した。良真くんが心配して家を空けるよう仕向けるために」
「鷲尾麻美さんを殺害した実行犯は永沢光江だ」
そう前置きし、服部警部補が手帳を出して開いてページに目を落とした。
「九月十七日から翌日まで、三加茂氏は和歌山に出張。職場で自分を守ってくれていた三加茂氏の不在で心細くなっていた鷲尾麻美さんは、バイトの永沢光江から森部五色村へ行くようそそのかされた」
……和歌山からもどったセンター長はその足で工場予定地の森部五色村を視察に行くと連絡がありました。そのとき豊田久巳の処遇がどうなっているのか聞いてみたらどう? あたしがそこまで運転してあげますから……
豊田久巳と同居していることは秘密にし、さも鷲尾麻美さんのトラブルに同情している親身な調子でそう告げたという。
ネットで証言者『ゆきえ』が口にしていたように、永沢光江は鷲尾麻美さんに対して「親しい友人」を装っていたらしい。影では鷲尾麻美さんの顔立ちがきれいなことや、正社員だということを妬みながら。
「勤務先の紅菱物流センターから森部五色村までのルート……被害者の鷲尾麻美さんが殺害される現場への移動手段について、電車やタクシーではなかったことは把握していた」
「あの真っ赤なポルシェを使ったんですか?」
「いや、永沢光江は通勤用にレンタカーを利用していた。黒い軽自動車を。その手続きをしたのは豊田久巳だ。二人が共犯だという動かぬ証拠の一つだよ」
ぼくと母さんがため息をつく。服部警部補が言葉を続けた。
「巧みに虚言を操る永沢光江に言いくるめられ、鷲尾麻美さんは森部五色村に連れ出された。首を絞めて意識を失った彼女を、入念に道ばたの石で頭部を強打して殺害。最初は自殺を装うつもりだったそうだ。だが、鷲尾麻美さんが一時的に意識を取り戻したことであわてて、石で頭蓋骨が陥没するほど殴って息の根を止めた」
母さんが両手で顔を覆った。
「その罪を、夫にかぶせようと……」
「ストーカー被害届が出されている豊田久巳は鷲尾麻美さんに接触できない。そこに永沢光江が接近したというわけです。二人は鷲尾さんを殺害し三加茂氏にはストーカー行為をするパワハラ上司だという汚名をかぶせておとしめた上で、殺人の罪まで着せようとした」
「イイネが欲しいだけのアホなネットチューバーに付け込んで、存分にネットを利用したんだ」
ぼくはため息をついた。
「家にあったノートパソコンには、どういうデータが?」
「鷲尾麻美さんの顔を貼り付けた女性の……」
ぼくと母さんの耳をはばかって、服部警部補が口をつぐむ。
「いや、その映像は豊田久巳の部屋にあったUSBメモリーのデータと同じだった。三加茂氏に汚名かぶせる証拠のはずが、USBを持っていたことで逆に二人が仕組んだ証拠になったわけだよ」
「母さんを拉致したのは衝動的だったんですね?」
鷲尾麻美さんに付きまとっていた豊田久巳は父さんの顔写真を盗み撮りし、殺害依頼を猫島藤成という男に依頼している。ストーキングのノウハウでぼくと母さんの顔を見知っていたかもしれないし、なによりも永沢光江は近所の「山田」家にひそんでいた。隠し撮りくらいしていただろう。どっちにしても、ぼくら二人の姿を連中は把握していたわけだ。
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