扶桑国マレビト伝 ㉔
大聖堂の広い階段の前で立ち止まった。背後では石化した人たちを乗せた辻馬車が目的もなく、のろのろと歩を進めている。
階段を見上げた。
ガス灯の明かりで、規則的に直立した円柱が薄いオレンジ色に染められている。その円柱に支えられた大きな丸い屋根。
あたしたちは階段をのぼっていった。
巨大な玄関扉の前は、広大なテラスみたいだ。大理石で出来ているらしい扉に街灯の光りが光沢をあたえている。
「マレビトが何者であれ、ここを開いたら、二度と戻れないかもしれないよ」
確かめるように諸見沢くんにつぶやいた。ベルトにはさんだ金色のチョークを手で押さえた。
「諸見沢くん、どうする? 逃げてもいいんだよ」
「ネタ取りのためだけにここまで来たわけじゃない。ぼくはものすごく怒っているんだ。マキリさんもだろ?」
「あたしだって。敗北感をこのままにしておけない」
金色のチョークを握り直したあたしに、諸見沢くんがうなずいた。ズボンの後ろに隠していた銃のグリップをつかみ上げた。
まるで招き入れるように扉が開いた。
足を踏み入れる。広々とした暗いホール。壁面には規則的にロウソク台があって、ともし火がゆらめいていた。
この時点で、あたしはマレビトと対決すると心を決めていたわけじゃない。
大聖堂に扉の壁画を描く役目を負っているのは九十九円蔵さんだ。
九十九さんは文麿男爵より先に鹿鳴館を出たはずだ。
あの人が主人を見捨てたのは何がきっかけだったのだろう。
ずっと以前から、忠実な従者の仮面をつけて計算し、文麿男爵を利用してきたのは明白だ。涼加先生が金色のチョークに化身したとき、救おうとしなかったように。
なにより、九十九さんは涼加先生が離れに残した未完の『扉』の絵を目にしているはずだ。
それを模写して、この大聖堂の壁画にするつもりだ。
常世(とこよ)と現世(うつつよ)をつなぐ扉を開くために。
マレビトを現世(うつつよ)へ導くために。
だけど統制派の人たちが襲撃で石化してしまった。
九十九さんはマレビトを説得し、よみがえらせるつもりなのだろうか? だとしたら、桃子ちゃんと康夫くんも、たったいま目にしてきた人たちもよみがえることができるかもしれない。
二メートル先をクロが進み、あたしと諸見沢くんが並んで歩いていった。
暗がりにゴツゴツとした角を額に生やした影鬼たちがうずくまっていたけれど、襲って来ようとはしなかった。
背中に昆虫の翅を震わせている異形もいれば、ヘビの下半身を持つ者もいる。頭部がナタのような形であったり、全身がナイフみたいなトゲをまとっていたりした。異形たちは赤く輝く目をこちらへむけ、あたしたちが通り過ぎるとぎこちなく立ち上がる。怪物たちはゆっくりとついてきた。
やがて突き当りに出た。
円形に造られたがらんとした広い空間だ。墓碑銘もなければ祭壇もなかった。
石板か塔のような、鎮魂のためのシンボルがあると予想していただけに、円形にぐるりと壁がめぐらされただけの広々とした空間は意外だった。
壁面には灯りを入れるためのくぼみがあり、その炎がわずかな空気のゆらぎに応えている。壁面に何が描かれているのかはっきりしなかったけど、群衆が一度に吐息をついたような錯覚を覚えた。
影鬼たちに取り囲まれ、クロがうなり声をあげる。あたしは金色のチョークを構えたし、諸見沢くんも腰をかがめて両手で銃把をつかみ身構えた。
「ようこそ、麻央さま……いや、レランマキリ」
声がすると、影鬼たちが肩を落としてそそくさと身を引いた。
影鬼の群れが割れ、壁画に向かって何か作業をしている人物の背中が見えた。
普通の絵筆も絵の具も使ってはいなかった。ステッキの先端を壁に向けるたび、その部分から描線や色彩が吹き出されているらしかった。
「必ずあなたは来てくれると思っていたよ。影鬼たちは帝都を機能停止にした。だが、マレビトをここへ導くための『扉』を描くわたしには手出しできぬ」
壁面に闇の色を塗りこめていたその人が振り返った。振り上げていたステッキを降ろし、それを使って一歩近づくと九十九円蔵さんは目を見開き、すぐ不機嫌そうに眉をひそめる。
「なんと、探り屋の若造も一緒か。邪魔者め」
「なぜ影鬼たちでいっぱいの大聖堂に、たった一人で無事でいられたのか……。なんとなく分かったよ」
諸見沢くんが不機嫌そうに身じろぎした。
「影鬼たちはマレビトに操られている。マレビトはこいつらにとっては絶対者だ。そのマレビトを現世へ来訪させるための『扉』を描いてやる、とでもなだめて影鬼を手なずけたのか」
「ああ、交渉には危険をおかした。なにせ頭の悪い影鬼だ。足を傷つけられ、このステッキが手放せない体になってしまったがね。……しかし、いまではすっかりわたしを信じているのだよ」
「じゃあ、函伊達の孤児院を襲ってきたのも、講宿へ行く途中で襲撃されたのも」
九十九円蔵がゆっくりとうなずいた。
「わたしの指図に影鬼たちは従ったのだ。巫女が化身したチョークがなくては『扉』が仕上がらぬ。あなたからそれを奪うために」
「ひどい、あなたのせいで死んだ人だっているのに……」
「この国のためなら、わずかな犠牲にすぎない」
首に巻き付いていた灰色ヘビが、一本の槍のように飛びかかってきた。即座にクロが反応する。空中でヘビの胴体に噛みつきながら、クロはライオンに変化した。鋭い爪で灰色ヘビのウロコで覆われた体を引き裂きはじめる。ヘビもまたクロの首をぎりぎりと締め上げる。
「やめて!」とっさにあたしは叫んだ。「九十九さん……ッ。マモリガミにケンカさせないでっ」
銃声が響く。あたしを背中でかばうなり、躊躇なく諸見沢くんが九十九円蔵さんを狙ったんだ。立て続けに三発。
銃声ごとに一歩、二歩と九十九円蔵さんは後ずさり、身をかがめたけれど、倒れなかった。指先から発生させた盾の魔法陣が銃弾を受けてひび割れ、砕け散って床に舞い落ちる。
「マキリさん、こいつだ! こいつが統制派の仕掛け人だったんだ!」また発砲し、諸見沢くんが九十九円蔵さんを示した。「政界で失脚した文麿男爵をそそのかし、ここに大聖堂を建設させた。ここに常世への『扉』を開くために!」
「わかってる。灰色ヘビを止めて! 九十九さん、石化した人を救う方法を教えて……」
「わたしのマモリガミには毒があると知っていたかね」
灰色ヘビがクロの後ろ足に食らいつく。足を食いちぎらんばかりの鋭さで。マモリガミが受けた衝撃で、諸見沢くんの半身がぐらっと傾く。クロが苦痛の咆哮を上げる。ライオンの爪が灰色ヘビの胴体に食い込んだ。
そうする間にも、横合いから全身がナイフの影鬼が諸見沢くんに突進した。一人や二人ではなかった。左からナタの刃先が空を切り、右からはナイフの切っ先が突き出されてくる。
金色のチョークで描いた魔法陣が空間をスライドして影鬼を防がなかったら、諸見沢くんはずたずたにされていただろう。
あたしの描いた魔法陣の力でナイフの影鬼が輪郭を崩す。土くれとなったそこにたちまち植物が芽吹いていく。銃声が響き、影鬼たちが倒れていく。
指先がフォークのようになっている影鬼が襲ってきた。とっさに諸見沢くんは相手のひじをつかみ、関節を折るなり鋭い刃物の形状をした指を影鬼の腹部にぶちこんだ。
灰色ヘビの強靭な締め付けから自由になろうと、クロはライオンからオオワシに姿を変えた。毒牙にかかったままの片足だけは、ライオンのままだ。オオワシは羽ばたいて数メートル移動しながら、くちばしで灰色ヘビの頭部を叩く。オオワシの鋭いくちばしはハンマーを打ち付けるような音を響かせた。それでも灰色ヘビは毒牙をクロの足から抜こうとはしなかった。
「……うッ」
突然、諸見沢くんが血を吐いてひざをついた。
あわてて駆けつけて両腕を開き、諸見沢くんの上に体をかぶせる。いままさにツルハシ状の口吻を諸見沢くんに振り降ろそうとしていた影鬼が動きを止めた。
「レランマキリには傷一つ、つけるわけにはいかない」九十九円蔵が目を細めた。「君は涼加お嬢さまが化身した金色のチョークを扱える才能の持ち主だ。説得して差し出させようとした。何度も盗み取ろうとした。だが、徒労だった。なにしろ君は用心深かったからね。あのチョークを使って『扉』は仕上げねばならないのだよ。いまわたしが使っているステッキは十年以上の歳月をかけて呪力をこめた特別な物だが……涼加お嬢さまが化身したチョークには及ばない」
「ここにマレビトを誘い出して、どうするつもりっ」
「決まっているじゃないか。支配するのだよ。そのためにわたしは身命を投げうった。……それにしても、諸見沢。クロより君の方が毒のまわりが早いようだね」
「九十九さん、あたしがあなたの言いなりになるなんて思わないで!」
顔を振り向けた瞬間、九十九円蔵の顔と肩越しに、改めて壁画が目に飛び込んで来た。
うずくまる諸見沢くんの肩を抱いたまま、壁画を見回してあたしは息を飲んだ。
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