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扶桑国マレビト伝 ㉒

 オールトさんが意味ありげに声をひそめた。あたしの髪に鼻を近付けている。

「芳香をまとう麗しい花とはあなたのことです。それに比べ、見なさい。このフロアにいる扶桑人たちの醜悪さを。自国の風俗を否定し、欧州人を真似れば近代化できると信じてがむしゃらに猿真似している。みっともない」

「……あの、あたしは扶桑国の北にある……蝦夷地から来たんです」

 シクヌ人との混血。そう説明できるかどうか不安だったけど、なんとか「蝦夷地」の地名は理解してもらったようだった。

「蝦夷地……素晴らしく広大な土地だと聞いています」

 あとは聞き取れない言葉をいくつも口に出した。

緊張していたけれど、オールトさんの足を踏まずにきれいなターンを決めることができた。片手をつないだまま体を離すステップを踏み、再び踊りながら男女が接近する。あたしは右手を取られ、左手でドレスのすそをつまんでいた。オールトさんは上機嫌だ。くるりとターンすると、オールトさんの手が離れた。

誰もが別の相手と組んで踊りはじめる。手を取られ、やや強引に背中を抱きすくめられた。あたしは目の前に岩麻呂さんがいることに戸惑った。カナリアがさえずっている。

「鹿鳴館のフロアには図書室があって、君が読みたがっていた扶桑国書記の原本があるよ」

「え、そうなんですか」

 イングリッシュガーデンで平手打ちして以来の会話だ。岩麻呂さんもきっと自分のしたことを反省しているにちがいない。あたしは胸を撫でおろした。

「ああ、あのドアから廊下に出よう。案内するよ」

 指さされたのは楽団とピアノの背後にあるドアだった。あたしたちはそそくさとダンスフロアを出た。

「図書室にあるのは来賓の外国公使たちを対象にしたガイド本のたぐいだ。扶桑国の名所を撮影した写真集と、古い文献がまとめておさまっている」

 廊下を歩く間にそう説明されたはずなのに、岩麻呂さんに連れ込まれたのは玉突き台とダーツボードが壁にかかっている遊戯室だった。

 ガランと人気のないそこで、あたしが立ちつくしていると背後でドアが閉まる音がした。そのドアに背中をもたれかけ、岩麻呂さんがこっちを見ている。

「あの……本棚は、古文書はどこに?」

「それより先にぼくに言うことがあるはずだよ。あんな風にひっぱたかれたのは初めてだった。痛かったな。実の親だって手を上げなかったのに」

「そのためにだましたんですか? あなたは涼加先生を侮辱した。それに、自分のフィアンセのことも」

「へえ、謝る気がないんだ」岩麻呂さんがゆっくりとあたしに近づいた。「身分あるぼくに恥をかかせて平気でいるなんて」

「近づかないで。またぶちますよ!」

窓辺へと後退した瞬間、岩麻呂さんがあたしに飛び掛かった。どんと背中が壁にぶつかる。右の二の腕を壁に押し付けられ、右手がほとんど動かせない。左手首は岩麻呂さんに捕まれていた。悲鳴をあげようにも、もう一方の手で口が押さえつけられていた。

ほとんど身動きできない。

それでも右手でベルトに差した小刀の柄をつかもうと身をよじる。カナリアがあたしの手をはげしくつついた。痛みにもがいたけど、しっかり抑え込まれていてうめき声もあげられなかった。

岩麻呂さんが口元に薄笑いをたたえていた。声を低めることもせず、誇らし気な口ぶりだ。

「この舞踏会がどういう趣向か分かってないようだから教えてやる。伯父上はお前にマモリガミがいないのと、その美貌を宣伝してやっているのさ。混血はマモリガミを持たなくても影鬼として産まれてこない。その証拠がお前だ、麻央」

 口を押さえつけたまま、岩麻呂の片手がせわしくドレスの上から体をまさぐっている。あたしはゾッとした。自由になった左手で相手の体を押しのけようと力をこめたけど、岩麻呂はひるまなかった。

 壁際をもみあいながらじたばたした。

蹴飛ばそうにもふくらんだスカート部分が邪魔。何度も身をよじって抜け出そうとした。小刀を手でさぐるたび、カナリアが激しく羽ばたいて小さなくちばしで攻撃してくる。

頬と頬がぶつかり、岩麻呂の鼻と唇が首筋に移動してきた。呼吸が荒い。

「扶桑国の華族が諸外国の公使から蔑まれちゃ面目ないからね、お前と縁組し、門条男爵家に近づきたい連中はたくさんいる。しかも生まれる子どもはマモリガミを持たぬ確立が高いんだから、お前は垂涎の的というわけだ。……といっても、まずぼくが味見してからだけど」

 いきなりドアが開いた。

「おんしぁ、なんちゃあやっちょるッ」

岩麻呂がぎくりとして振り返る。ぐあんという物音が響き、どっと岩麻呂が床に崩れた。おかげであたしの視界に諸見沢くんが飛び込んで来た。

一目でホール係りと分かるいでたちだった。白いシャツに黒いズボンをまとっている。

あたしは諸見沢くんに飛びつくようにして走り寄った。助けて! と叫んだかもしれない。

素早く体を反転させ、諸見沢くんはあたしを背中でかばった。ズボンのベルトの背中側に拳銃が突っ込まれてあるのが見えた。

岩麻呂に立ちはだかる小柄な諸見沢くんが、このときはとても大きく思えた。

「マキリさぁが見えんってあちこち探しとったら、こん遊戯室でおんしが妙なことしゃべっちゅう声が聞こえたぜよ。まさか、こげなことになっとったとはな!」

後頭部を押さえて岩麻呂がうめいた。目だけは居丈高に諸見沢くんをにらみつけている。

「お、お前っ、ホール係りがなんだって、こんな乱暴を」

「なんちゃあやっちょるち、聞いたのはこっちの方じゃッ」

どんと足を踏み鳴らして怒鳴りつけた。

「おんしぁこげな狼藉をしてよかと思いよったか、華族の不埒モンがッ。こん人はおれの大事なおなごじゃ。手出しすっとは絶対に許さんぜよ! よく覚えちょけッ」

 うそぶく諸見沢くんの目は激怒していた。

 ほとんど怒鳴られることなく成長したらしい岩麻呂が床に尻餅をつき、ぼうぜんと諸見沢くんを見あげている。

マモリガミのカナリアがヒステリックにさえずってカーテンレールあたりをばたばたとおののいていた。のども翼も神経質に震えている。無理もなかった。だって、窓の外にはオオワシがはばたいていたから。諸見沢くんのクロがガラスにぎりぎりに近づいて、カギ爪を突き出して中空でとどまっていた。

「な、なにか誤解が……」よろめきながら岩麻呂さんが立ち上がる。声を震わせて取り繕うとしていた。「ちょっとした悪ふざけだったんだ……。ね? 麻央」

「やめてッ! あんたなんかに呼び捨てされたくないッ」

 あたしの抗議の声に、力なく岩麻呂は髪を片手で整えた。

開きっぱなしのドアから「何事です」とばらばらと人が集まってくる。メイド帽子をかぶった女の人もいれば、軍服に重そうな金属製品をつけたかっぷくのいい男性もいた。「遊戯室で岩麻呂さまがまた不祥事を?」と声をあげている。

その中には里美さんもいた。遊戯室に飛びこむなり岩麻呂さんをながめ、諸見沢くんをそれからあたしを見た。再び岩麻呂さんに視線をぶつけて拳を握る。

「なによッ! ちょっと化粧直しに中座した隙に、あなた、このシクヌ娘を連れ込んだのねッ。あの婚約破棄の怪文書も自作自演だったんでしょッ。とぼけたってお見通しよ! わたくしに恥をかかせてただですむと思っているのッ」

すさまじい里美さんの声色がガラス窓を震わせる。

「ご、誤解だよ……」

抗弁する岩麻呂さんの声が聞こえたけど、婚約者二人の様子をあたしは目にしてはいなかった。

そのころには諸見沢くんに手首を引かれ、ごったがえしつつある遊戯室を脱していたから。

 ダンスフロアから人々が廊下へと出て来た。その流れと逆行して、あたしたちはフロアへと戻っていった。

「踊りながら誰もがマキリさぁをながめちょったろう。本当(げ)にきれいな人しか目にせんがじゃ。分かっちょったのに、ぼくはちっくと目ぇ放してしもうた。こわい思いをさせて、すまん」

 諸見沢くんが早口でまくしたてているあいだ、あたしも一方的にしゃべっていた。

「来てくれてありがとう、諸見沢くん。ずっと会いたくて、待ってたのに」

 会いたかったんだよ、会いたかったんだよ、会いたかったんだよと、気づいたら何度も繰り返していた。

「書庫にこもって一緒に『依姫記』を読んだよね。あれからどうして訪ねて来てくれなかったのよ」

 後半はなじる響きをもっていたけど、あたしの手を引く諸見沢くんの耳が真っ赤になっていた。振り返らずに、大きく息を吐くとやや震えた声で応じた。

「庭師の仕事で潜り込めんなったき、別の方法でなんべんもマキリさんに会おうとしたんやけんど、守りが固うて忍び込めざった」

「……お屋敷では、でも、味方がいるの。村井さんっていう」

 やっと諸見沢くんが振り返った。うなずいた。

「ああ、古参のハウスキーパーだね」

「そう」あわただしくうなずいた。「よく知っているね」

 

 あたしたちはダンスフロアへと足を踏み入れた。

その瞬間、いきなりバルコニー側の窓が割れた。悲鳴が上がる。ガラス片が飛び散り、黒々としたコウモリの翼と角を持つ影鬼たちが乱入してきた。

「影鬼! 影鬼だわ!」

「おのれ! 異形どもめ!」

 きらびやかなドレスをまとった女の人たちが悲鳴をあげ、頭をかかえてその場にうずくまる。窓枠が壊れる音、あちこちから悲鳴と罵声が響く。

影鬼たちは背中のコウモリの翼を折りたたむと、ねじれた角を生やした額を突き出した。馬蹄の音を響かせて突進してきた。テーブルが蹴散らされ、花びんに活けた花々が床に落ちる。

逃げ惑う人たちの肩に押され、あたしは指先で盾の魔法陣を描いたけれど、どうしても円は歪み、思ったような文字配列も入れられない。なによりも、金色のチョークでなければ魔法陣は利かないのかもしれない。

「マレビトは常世の支配者。扶桑国に常世と現世(うつつよ)をへだてる『扉』がかつて存在していました。新たにその『扉』を描くことができるのは、いにしえより強力な巫女を輩出してきた門条男爵家にゆかりのある者」

 九十九円蔵さんの声が喧騒をかきわけて耳に届いた。

「近代化を目指す扶桑国のためにも、マレビトと常世を支配しなければなりません。政権内で我ら統制派がマレビトを制すれば、我が国は世界で一等国になり得る。そのためには大聖堂の壁に『扉』の絵を完成させねばならないのです」

「何を申しておる、九十九っ。貴様はわしの従者にすぎぬのだぞ!」

 喧騒の中から文麿男爵の叱責が飛ぶ。

男の人たちが腰をかがめる。礼服の内側にピストルで武装していた人はピストルを抜いたし、きらびやかなサーベルを腰につっていた人はサーベルを抜いた。だけど、影鬼の動きは素早かったから、ほとんど戦えないありさまだった。

「扶桑国はやはり危険だ」逃げ惑いながらオールトさんが叫んでいる。「異国人の我々にまで影鬼が襲ってくるッ。野蛮な人食い鬼の国だ!」

「どこだ、どこに避難所があるッ」

 案内係の男の人たちが彼らを別室へと誘導する。そのあいだ、あたしと諸見沢くんはマモリガミがいる控室へと走っていた。

そこここに影鬼たちがいた。昆虫の姿をして翅を震わせて、横に拡がるアゴや複眼を光らせている異形もいれば、爬虫類に似ている異形もいる。影鬼たちは人々を追い回していた。

ドアを開いた。さまざまな動物たちがわあっと廊下へながれこむ。

 肉球に爪を持つ四肢、うろこのある脚や振り上げた尾でマモリガミたちが影鬼たちを踏みつぶしていく。

「マキリさん、鹿鳴館から逃げろ」

「だめ! 文麿男爵にあずけたバックにあのチョークが入っているの」

 再びダンスフロアへと取って返した。

クマ、羊、牛、セイウチ、オオトカゲ、ヤマネコ、ユキヒョウもいれば鹿も白鳥もいた。諸見沢くんのクロはバルコニーから入室するなり、オオカミに変化して影鬼と対峙している。

「一階の広間も二階の喫茶室も、影鬼たちでいっぱいです! マモリガミに保護されて逃げてくださいッ」

 夢中で叫ぶあいだにも、ツキノワグマが軍服の所有者を認めて駆け付ける。誰のマモリガミかは知らないけれど、立派な角を持つ牡鹿の姿のマモリガミが影鬼に突進した。影鬼の角と牡鹿の角がガシンとぶつかり、床も壁もゆるがした。勇ましいのはセイウチで、巨体をゆらして二体の異形を床に突き倒す。

「文麿男爵!」

 銀ぎつねと一緒になって、あたしは文麿男爵のところへと駆け寄った。けれど、あたしの前に赤い総レースのドレスが立ちふさがる。銀ぎつねが文麿男爵のもとへ達する。左側では諸見沢くんが銀のトレイで影鬼をぶん殴っていた。

「あなた、いけにえになりなさいよ!」

 いきなりほほに平手打ちがきた。あたしはよろめいて、左ほほを手で押さえた。片手を上げて、里美さんが呼吸を荒げている。

「あなたさえいなければ、ここへ影鬼が襲ってこなかったのよ! 死んだ涼加さんに育てられたのでしょ? 義理があるなら大聖堂へ行って、さっさとマレビトのためにいけにえになるがいいわ。あなたなんか影鬼に引き裂かれておしまい!」

 拳を振り上げ、あたしの肩や額を打ってくる。手を突き出して防ごうとしたせいで、盾の魔法陣が描けない。そのたびにあたしの指先から発生する銀色の曲線や象形文字がバラバラと床にこぼれ落ち、消えていく。

「本当は岩麻呂さまなんかどうでもいい! 社交界の名花はわたくしだけでたくさんよ! なのに、わたくしより殿方の気を引くなんて許せない! あなたなんか汚らわしいブタ以下のくせにッ」

「いい加減にしてッ!」

 里美さんの手首をつかむなり、そのまま突き飛ばした。前に踏み込んで平手打ちする。ぴしゃりと音がして、信じられないという表情で里美さんが目を見開いた。

「頭に血が上っているあんたなんかに構っていられない! さっさと逃げなさいッ」

背後では叫びと悲鳴と物が壊れる音が響いている。

キャンドルが倒れ、ランプのシャンデリアが落下してピアノが炎に包まれた。銃声があった。振り返ると諸見沢くんが突進してくる影鬼の額を正面から撃ちぬいたところだった。

炎にあおられようが、影鬼たちはひるむ様子はない。一度倒しても、傷ついた肉体をかばうことなくよろめきながら立ち上がってくる。

燃え盛るピアノの向こうで、クロがオオカミの姿から漆黒のライオンに変化した。影鬼に飛び掛かって爪をたて、暴れている。諸見沢くんもまた、割れたシャンパンボトルを影鬼に投げつけ、銃のグリップを両手でつかみ直して滑空してきた影鬼を撃ち落とした。

「おのれ! 影鬼め」

 陸軍大将だという口ひげの人がサーベルを抜いて一体の影鬼の胸をつらぬく。胸を刺されながらも影鬼は腕をじたばたと動かした。すでに陸軍大将のマモリガミは滅ぼされていたのだろう。サーベルを前に突き出した姿勢で陸軍大将は下半身から石像化してゆく。

「九十九! 何をぐずぐずしておるッ。みなを避難させろ!」

文麿男爵が声を荒げている。

たぶん白髪の公爵のマモリガミなのだろう、セイウチが丸い頭をあげて咆哮した。ツキノワグマは後ろ足で立ち上がり、左右の前足で異形たちを殴打している。岩麻呂さんが文麿男爵の近くに到達した。

「九十九! どこへ行ったッ。わしを置いて逃げたのかっ」

「伯父上も、さあ早く脱出してください!」

「岩麻呂さん、里美さんはあんたのフィアンセでしょう!」

 大声でとがめたけど、岩麻呂さんはちらっと目をやっただけだった。ドレスのすそを持ち上げ、その方向へと走った。ドレスのすそが邪魔! 思うように速度が出ない。もどかしい。かかとの高い靴をその場に脱ぎ捨てた。

 銀ぎつねは影鬼の襲撃をふさふさの尾で叩き、鋭い牙を使って文麿男爵を守ろうと格闘している。

「きゃあ……ッ」

 ハッとして振り返ると、里美さんのザリガニが影鬼に踏みにじられていた。片方のハサミはすでにちぎれていたけれど、深紅色のザリガニは残った方のハサミを振り上げて影鬼から里美さんを守ろうとしていた。

 あたしが文麿男爵にあずけたバックに手を伸ばすのと、バックから金色のチョークを取り出すのと、誰かのマモリガミの文鳥が影鬼の片手でつかまれるのが同時だった。

ピィッ! という悲鳴があがり、ぐしゃりと文鳥が握力に屈する。

「わたくしの、マモリガミが……わたくしの……」

 白いドレス姿の少女がうずくまり、動きを止めた。石化していく。まだ弾力を失っていない腕に噛みつこうと影鬼が牙をむき出して身をかがめた。

 ライオンの姿をしたクロがまた一体の影鬼を倒す。すでに弾丸が切れたらしく、諸見沢くんがシャンパンボトルで羽を持つ影鬼を殴打した。

あたしも必死で金色のチョークを動かした。

チョークの先から発生した魔法陣が影鬼たちに襲いかかる。

異形たちの額から角が抜け落ち、背中の翼が朽ちていく。膝からがくりがくりと倒れてゆき、全身から青黒い煙が立ち上る。影鬼の遺骸はみるみる崩れ、植物が成長の音をたてて芽吹き、茎が立ち上がっていく。

 

 やがて、フロアがしんと静まり返った。

すみっこに取り残されている人々が、すすり泣きの姿勢で灰色に固まっている。

もう遅い。

誰も身動きしなかった。

 床に倒れた里美さんは目を見開いたまま、白いドレスの少女もまた床に膝をつき、消滅したはずの文鳥を救おうと手を差し伸ばした姿勢で石像化していた。

 灰色の石化した人々の中で、あたしは呆然と立ち尽くした。

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