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扶桑国マレビト伝 ⑲

ハウスキーパーが厳かにあごを引く。

「お嬢さまが欧州へ絵画修行のため留学したのはわずか十二の歳。十年という歳月を異国で過ごしてきたのです。あのまま涼加お嬢さまは留学し続けていらっしゃればよかったと、わたくしはいまだに悔やんでおります。たとえ涼加お嬢さまの母君がお亡くなりになったとしても……扶桑国に戻るべきではなかった……。二十二歳で帰国したお嬢さまは、当然ながら生活も考え方もすっかり異国人のようでございました。なにより、異国で学んだというだけで華族令嬢には箔がつきます。よりよい家柄に嫁入るか、高位の一族から婿を取るための切り札が令嬢の留学だったのです。その知識を生かす職場など、新政府が用意しているわけではありません」

「そんな、ひどい……」

……この国が近代化しているなど、まやかしです……と村井さんは断言した。

「納税額が低い貧しい階層には男であっても選挙権もなく、富める者だけが政治に参加できるのです。当然、女には参政権もありません。そのうえ長年連れ添ったとしても、夫の遺産すら相続できない。……有能でもただ女というだけで男の下段に置かれます。そういう扶桑国を変えたいという情熱を口にした涼加お嬢さまを、父君の男爵さまはこの離れに軟禁したのです」

 涼加先生が帰国後、洋画家として活躍しながら華族のお姫さまたちに絵を教えるかたわら、婦人参政権運動をしていたなんて。

尋常小学校を退校させられたとき、涼加先生があんなに憤慨した理由。できるだけあたしの知識を伸ばそうと努めてくれた集中力の源泉が、そこに隠されていた。

「でもそれは、文麿男爵にとって警戒すべき危険思想、民本運動だと決めつけられたのです」

 蝦夷地での影鬼孤児院襲撃事件で、警察からかん口令を言い渡されたことを思い出した。我楽多号の船内でも、確か九十九さんと黒岩さんが「民本運動」についてしゃべっていた。

民に主権のモトがあると称する民本運動家。でも、「民本主義という言葉自体が詭弁でごわしてな」と黒岩さんは言っていた。

……民主主義っちゅうと主権が民にあると真っすぐ分かりやすいもんを、巧みに「民に主権のモトがある」と言い換えてミンポンなどとごまかしておるのでごわす。まあ、こん扶桑国の主権は帝のモノ。その帝っちゅうのもお飾りで、側近どもが政治の失敗をしたおりに責任逃れのために帝をたてまつっておるというのが実態でごわす。主権は帝にある、としておけば何かと都合がいい。民本運動家もむやみに警察から叩かれたくないから、民主主義を民本主義とごまかして、闘論や辻演説をやっとるわけでごわすな……

「そのような思想を持つことは、女として出過ぎたこと、はしたないことだったのです」

「はしたない? そんな……どうしてです」

「女は何も知らず、子を産み育て、家庭を守り男を慰めていればよい。それが女の幸せ……と幼いころからしつけし、教育し、思い込ませておけば面倒がないということですわ。女に教育は無用、無知であれば父親や夫に従うしかない。……そういう仕組みが世間にいきわたっているのです」

 村井さんの口調は静かだったけど、それだけに憤りと自嘲、諦観がにじんでいた。

「涼加お嬢さまを留学させたのは、絵画の腕を充実させるためもありましたが、実のところ門条男爵家は維新のさきがけであるという体面が欲しかっただけなのです」

「一族の巫女として、力つけるため……という意味のことを男爵は話しましたね」

「ええ。門条男爵家は画才や画力が神秘の力を結晶化させると言われています」

「文麿男爵や岩麻呂さんも絵を?」

「あのお二人は絵筆など持ちません。画技はもっぱら分家筋の九十九が継承しているようでございます」

 あたしはうなずいた。

そのときノックがした。村井さんがドアを開く。エプロンをつけた女の人が二人いて、一人はお盆を捧げ持っている。そこには紅茶とサンドイッチ、目玉焼きとサラダを盛りつけたお皿があった。もう一人はカバンを手に下げていた。あたしが講宿に置いて来たカバンだ。

「諸見沢、という者がこれを届けに参りました。本人に直接渡したいと申し出ておりましたが、取り込み中のため断ったのです」

 あたしはがっかりした。村井さんに引き合わせて、いまの話しを聞かせてあげたかったのに。

「荷物はそれだけですか?」

「はい、このカバン一つがあたしの全てなんです」

 エプロンの女の人から受け取り、ドアの脇にカバンを置く。そのあいだに村井さんはお盆を受け取って、ティーテーブルに置いた。

二人の女の人は一礼してドアを閉めた。振り返るとティーテーブルの席につくよう村井さんがうながしている。

「お昼がまだでございましたね。麻央さまを養女に迎えた内祝いに男爵と昼食を共にされると予想していたのですが、ご多忙のためお誘いがありませんでしたのでこちらに軽食をご用意いたしました」

 テーブルの上には村井さんの分のお皿もあって、あたしたちは紅茶を口にしてサンドイッチを食べ始めた。目玉焼きは黄身がとろりとしていて、白身のふちは油で揚げたようにカリッとしている。サラダにはお醤油がかかっていた。フォークでそれらをつついて口に運び、最後にイチゴジャムを包んだ小さなチョコレートを食べた。

「紅茶も卵も、全部がおいしいです。それにこのチョコレート……こんなに小さいのにジャムが入っているなんて……初めて食べました」

 紅茶の湯気の向こうで村井さんのメガネがくもっている。お口にあってようございました、とメガネを取り、丁寧に表面を拭いてからまた顔に戻した。

「先ほどの話しを続けさせていただきます」

お皿をお盆に戻してしまうと、ちょっと唇を引き締めてからしゃべり始めた。

「……本当の意味で目覚めた涼加お嬢さまを持て余し、男爵は旧弊な扶桑国の巫女として生きることを強制しました。失われた『扉』について、さきほど説明がありましたね」

「はい、常世と現世を行き来するマレビトのための『扉』の壁画ですね」

「統制派、についてもある程度、知識があるようにお見受けしましたが」

「知識というほどじゃありません」あたしはあわてて否定した。「九十九さんと新聞社の人が話題にしていたのを耳に挟んだ程度です」

「政府内にはマレビトを支配下におくという野心を持つ一派がいて、それが統制派と呼ばれております。門条男爵家は代々、画技をもって『扉』を守り、帝をお守りしてきた一族の末裔。ゆえに男爵さまは統制派の要なのです」

「やっぱり……涼加先生は自分の才能が、政治利用されるなんて苦痛だったでしょうね」

一族のつとめという口実で追い詰められ、たえきれずに家出した過去を涼加先生は苦悩しながら消滅してしまった。女性の権利を獲得したいという情熱が真っすぐであればそれだけ、挫折した思いは苦しかったにちがいない。

 立ち上がり、村井さんはつかつかと部屋中央にあるイーゼルの前に進んだ。おおっている布をばさりと取り除ける。

 その絵の前であたしは息を飲んだ。

 大きく開かれた扉の向こうに巨樹が描かれている。その背景には巨大な月や星々があって、曼荼羅のような軌道の上でまたたいている。

 でも未完成だ。涼加先生の筆にしては色の重なりに透明感がなかったし、描線は途切れがちで迷いを感じさせた。

「……この絵は、常世への『扉』……でしょうか? 下絵ですか?」

 線のこすれ具合が気になり、あたしはキャンバスの中の扉の部分に手を当てた。不思議なことにその瞬間、ぴくりと絵画の扉が脈打った。

あわてて手を引いたあたしに、村井さんは首を振って吐息をつく。

「……このアトリエに監禁された涼加お嬢さまが、どういう思いでこの『扉』絵を描いていたのか……。あの当時は本当にひどうございました。男爵の意に従わぬがために監禁され、そのためにさまざまな汚名を着せられて……。わたくしにできたのは……せめて涼加さまをこの屋敷から逃がすことだけでございました……」

 言葉を切った村井さんに、あたしは蝦夷地で涼加先生とどういう暮らしをしていたのかを物語った。

「ところで、涼加お嬢さまは蝦夷地で病に?」

「ええ、やはり寒い地方ですから。病気がちだったんです」

言葉を濁した。

体が樹木に変化していく奇病にかかっていたことは口にできない。

九十九さんはこの事実を文麿男爵に伏せている。村井さんにも当然、知らせてはいないだろう。

樹木化していく奇病の果てに、金色のチョークに化身してしまった涼加先生。

下手にこの事実を村井さんに明かしたら、村井さんは動揺する。その動揺はすぐ九十九さんに悟られるだろう。問い詰められ、どんな目に合わされるかわからない。

……あまり人に知らせない方がいいような気がする。もしかしたら、九十九画伯はこのチョークを欲しがっているかもしれない……

諸見沢くんはそう言った。

 やがて村井さんは立ち上がった。

「ごゆっくりお休みください。夕餉には食堂へ案内いたします」

 わかりました、とうなずきながらふと思う。あの文麿男爵と一緒の食事では気が休まらないだろうな……。

 村井さんはドアを開き、お盆を手にして退出していく。

 ドアが閉まり、一人になった。

 あらためてアトリエを見回し、深々と吐息をつく。ここに諸見沢くんがいないことが、本当に残念だ。残念で、寂しい。恋しくすらあったのは意外だった。別れてから、たった数時間しか経過していないのに。

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