【現代表記】 福沢諭吉 「英国 議事院談」 (上院の事)
底本には小泉信三監修『福澤諭吉全集』第二巻(再版)所収の「英國議事院談」を使用した。
上院の事
英国の議事院は、国王と上院と下院と三局の集会なり。上院の議員を二区に分ち、一は世事に関係する貴族にて、之をテムポラル・ピールと云う。一は宗旨教化の事に関係する貴族にて、之をロルド・スピリチェアルと云う。
第一、世事に関係する貴族を五等に別ち、公、侯、伯、子、男と云う。(此五等の名は暫く漢人の訳字に従う)其由て起りし本原は詳ならずと雖ども、男爵の大諸侯は、前条に記する如く、プランテージネットの世に於て国王より特に其姓名を掲げて議事院に召びしものなり。其他の小貴族は爵位の総名を掲げて之を召びしと云う。
男爵の貴族(バロン)は、土地を領したる者あり、或は国王より誥命を賜りて其爵位に任ずる者あり、或は証書を与えて之に任ずる者あり。昔し封建世禄の世に在て、土地を領する者は必ず此爵に任じ、爵と禄と相分つ可らざるものとせり。男爵の大諸侯とは其一国を全く領する者にして、此家に生れば、其人物を論ぜず、必ず議事院に出席するを許す。(一国一城の主たるものか)此例は第3世ヘヌリ王の時に始まりしことなれども、其後第1世エドワルト王(1272年即位)の世に当て此例を廃し、現今は男爵の貴族、土地を領し、其門閥に由て必ずしも議事院に出席する者なし。
国王より誥命を賜りて議事院の召に応じたるものは、領地なしと雖ども男爵に任じ、其爵を子孫に伝う可し。此例は第3世ヘヌリ王の49年に始まり、方今英国に此類の貴族二家あり。レ・デスペンセル及びデ・ロス、是なり。誥命に由て任じたる男爵は、元来議事院へ出席するが為めの爵位なれば、事実其人ありて議事に関係するに非ざれば、此称号を用るを許さず。故に此位に任じたる者、若し男子なくして女子あれば、死後は其官爵を止め、女子の嫁して男子を生むを待て、其男子に位を伝るを法とす。
証書を与えて男爵に任ずるとは、国璽を押したる書を賜りて任官することなり。但し証書に由て任官したる者は、位を子孫に伝う可しと雖ども、相続の法に分限ありて、必ず血統の男子に非ざれば位を伝うを許さず。或は其書中に別段の箇条を記し、実子なければ兄弟又は姪に伝うるを許すこともあるなり。
子爵の貴族(ワイス・カオント)は、恒に官の証書を受て爵に任ずるものなり。此例は英国にて最も新なるものにて、乃ち1440年第5世ヘヌリ王の世に始まりたり。蓋し往古は土地の奉公をワイス・カオント或はワイス・イールと唱えしと云う。
伯爵(イールドム)の名は、1066年ノルマン一統の前より英国に通用せり。古は土地の総奉公をイールと唱え、世官に非ざりしが、一統の後はカオントの名を以て之に代え、又暫くして旧名に復したり。近世に至ては実に土地を領して此爵位に居る者なし。只有功の者へ官の証書を賜りて任官するのみ。
侯爵(マルキセイト)の名は、第2世リチャルド(1376年即位)の世に始れり。官の証書を以て任ずるものなり。
公爵(ジュークドム)は、英国の貴族中にて最上の尊称なり。之に任ずるの例は、第2世エドワルト(1327年即位)の11年、コロンオル始めて之に任じたり。但し此公、実に領地を有せしや否は知り難しと雖ども、其後公爵に登る者は者は皆領地なく、只証書を賜りて尊号を称するのみ。
右五等の貴族、皆其爵位を子孫に伝え、上院に出席するの権あり。貴族にて謀反の罪を犯す者あれば、其爵を剥ぎ其家を没入して罪を仮すことなし。只議事院の評議にて之を救うときは、其爵位を旧に復することもあるなり。
蘇格蘭を合幷せしより以来、同国の貴族中にて、会議の度毎に人物16名を選挙し、衆貴族の代任として英の議事院へ出席せしむ。蘇格蘭の貴族は下院に出席するを許さず。且此貴族、蘇格蘭の籍を脱して大不列顛(英の本国及び蘇格蘭を合したるを総称)の貴族と為るときは、乃ち又上院に出席することをも許さざりしが、1780年以来此例を廃せり。
阿爾蘭を合幷せしより以来、同国の貴族中よりも28名の人物を選て、上院へ出席せしめて終身職に在り。阿爾蘭の貴族は下院へ出席するも妨なし。但下院の議員と為て出役するの間は、上院の議員に選挙せらるることなし。
第二、宗旨教法の事に関係する貴族とは、所謂教化師なり。即ち英の本国及びオールスより、大僧2名、教師24名を出し、阿爾蘭より4名を出す。此教化師の上院に出席する由来を尋るに、昔ノルマン一統の時に当り、領地の改革を為せしとき、僧徒にも土地を領するものありて、之を貴族諸侯の列に加えたり。固より当時封建の世にて、欧羅巴諸国に於て高僧は必ず国事に関係するの風俗なれば、英国にても其風に従い、往昔より僧徒を会して国の大議に出席せしめしことなれども、上院と下院と相分るるに及び、僧徒をして上院の席に就かしめたるは、其土地を領して貴族の列に在るの故を以てなり。プランテージネットの世(1154年以後)には、政府にて用金等の議あれば、僧官も其名代を出だして事を議せしむること、俗人に異なることなかりし。之に因て第1世エドワルト王に時、僧徒をして俗人と相混じて議事院に坐せしめんとしたれども、僧家は自ら其地位を主張して之を肯ぜず、遂に議事院の列を脱し自ら一会を設立せしこともあり。第8世ヘヌリ王の世、僧徒を放遂せしときには、上院の僧官も皆院を退きたり。(事は西洋事情初編の第3巻第16葉に詳なり)
方今上院に出席する英国の僧官26名なれども、其2名は其名のみにて其人なし。
僧官、教化師と雖ども、其名のみにて、実は議事に関係すること尋常の貴族に異なることなし。但元来血統の貴族ならざるが故に、若し僧官中、罪を犯すものあるときは、其裁判の法、平人の罪を糺問するに異ならず。(英国の法に於て、平人の罪はジューリの立合にて裁判し、貴族の罪は貴族の立合にて吟味すと云う。)且僧家の身を以て上院に立ち、人の死罪を裁判すべきや否、其論今日に至るまで一定せず。
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