【現代表記】 福沢諭吉 「かたわ娘」

底本には小泉信三監修『福澤諭吉全集』第三巻(再版)所収の「かたわ娘」を使用した。


   かたわむすめ

福沢諭吉 寓言ぐうげん

 富家ふか女子にょし誕生し、かおかたち申分もうしぶんなく、玉のごときなれども、うまれつき眉毛なし。初生うぶのことなればかくべつ人の目にもつかず、おいおい月日をおくり、はや8、9ヶ月もたち、前歯1、2枚づつはえけるに、その色黒し。なおまた半年を過ぎ1年をくらす内に、上下の歯もはえ揃いしに、いずれも墨にてぬりたるようなれども、近所世間の人は尚これにこころづかず、たまたま目にとまることあるも、珍しからぬむしばにもあらんなどとて噂するものもあらず、ただ両親はとくよりこれをうれい、世に不具なるものも多き中に、眉毛のなきものとては古来人の話にききしこともなく、あまつさえはじめてはえし歯の黒きとはいかなる因縁なるやと、人しらずひとり心を悩ませしかども、なお親の欲目よくめにて、眉毛はもあれ、歯ははえかわるときかならず人なみになることならんと、7、8歳のころまでそだてあげ、初生歯ういばものこらずぬけかわりしに、両親の案に相違し、2度目の歯はますます黒くして、墨の如くうるしの如し。

 光陰こういん矢よりもはやく、はや14歳の春に至り、初花はつはなのつぼみもほつるる時節、たちいふるまいいとやさしく、あいきょうもこぼるるばかりの娘さかりなれども、ただいかにせん、歯と眉毛となり。近所の人々も今はこれを見のがしにせず、ひそかに指さし噂して、文盲もんもう連の口々に、の娘の眉毛はいずれにも癩病らいびょうの筋に相違もあるまじ、あわれむべし、玉の顔色も近き内に形を失わん。その癩病はかくも、彼の歯の色もあやしむべきなり、あの家にはいかなる前世の宿業しゅくごうありてかか稀代きたいのかたわものを生みしや、親は代々たどん商売、くろいたどんを高く売りしろい飯をいしむくいか、さなくばここにまた説あり、あの親達はかねもちなれども、近処きんじょの人が借金の断りに行きしとき、いつもふくれつらして白い歯を見せたることなき其因果にて、黒い歯の娘を生みしならんなどとて、でほうだいにあざけり笑うもあり。又洋学先生の説に、眉毛のうるわしくして歯の白きは、婦人の面色を飾るため造物主の特に意を用いしものなり、ことに眉毛は面のかざりのみならず、光線の過劇かげきを防ぐための要具なり、人に眉毛なきときは(太)陽の光線を上よりじきに目に受け、眼病の源因げんいんとなること多し、ゆえに世界中に、熱帯諸国、日光のはげしき土地の人は眉毛濃く、寒帯に近き地の住人は眉毛薄し、かくまで造物主の深き趣意ある眉毛なるに、生れながら其痕跡あとかたもなきとは天に見放されたる罪人というべしと。親達はこの説を聞くにつけても一段のかなしみを増し、玉とも花ともたとえん方なきただひとりの娘、はや年頃にも及びたるに、この風情ふぜいにてはとても縁談の出来でくべきにもあらず、医者を頼み神仏を祈り、この娘の歯を白くし眉毛をはやす法もあらば、わが身代しんだいをつぶすはおろか、両親の命に替えてもはばかることなしとて、手をつくすべきわむれども、さらに其甲斐かいあることなし。

 かくて年月を経るに従い、不思議なるかな世上せじょうにてこのかたわ娘の評判次第にうすらぎ、20歳ばかりの年に至りしかば、近処きんじょにても全く忘れたるがごとく、一人として噂する者もなきゆえ、両親も心の中によろこび、しかるべきむこもとめてこれに家を譲り、その身は隠居しけるに、のかたわ娘なる者、今は申分もうしぶんなき一家の細君さいくんとなり、年来の心配もきえて跡なかりしとぞ。嗚呼ああこのむすめは、不幸にしてさいわいを得たるものというべし。外国にてかかる不具にうまれつきなば、生涯身の片付かたづけも出来ぬはずなるに、幸にして日本国に生れ、同類のかたわ多ければこそ、人なみに一家の細君ともなりしことなれ。此婦人不具なりといえども、すでに人の妻となる上は、その娘の時の由来を知るものこそこれを不具なりといわん。知らずしてこれを見れば、隣の細君が眉をはらいおはぐろをつけたる風に少しも異なるなし。ただとなりの細君は剃刀かみそりもちて眉の毛をそり、ふしの粉を用いておはぐろをつけ、銭をついやし手間をかけ、まんぞくなる顔にきずつけようやくかたわになりたると、此娘は生れつきあつらえのかたわづらにて、剃刀を用いずおはぐろを求めず、やすやすと世間のかたわに仲間いりして、銭も手間も費さざりしとの相違あるのみ。実に不思議なるは世間の婦人なり。髪を飾り衣裳いしょうを装い、はなはだしきは借着かりぎまでしてみえを作りながら、天然にそなわりたるかざりをば、おしげもなく打捨うちすてて、かたわ者の真似をするとは、あまり勘弁なきことならずや。まして身体髪膚しんたいはっぷは天に受けたるものなり。みだりにこれに疵付るは罪人ざいにんともいうべきなり。

 終

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