【現代表記】 福沢諭吉 「英国議事院談」 (英国議事院の由来)
底本には小泉信三監修『福澤諭吉全集』第二巻(再版)所収の「英國議事院談」を使用した。
議事院談 巻之一
慶応義塾同社 福沢諭吉 訳述
英国議事院の由来
議事院は英国の法律を議定する衙門なり。英語之をパルリメントと云う。乃ち仏蘭西のパーレーと云う語より転じたるものにして、パーレーとは談論するの義なり。抑も議事院の由て起りし其始を尋るに、昔し封建世禄の世に当り、諸王、諸侯、其大小臣僚を会して政刑を議し、且当時の論にて、君主の命と雖ども臣僚の議を経ざるものは敢て国法と為す可らざるを以て典常と為せしがゆえに、此会議は恒に其席を開て中止す可らざるものとせり。又欧羅巴西方の諸国に於ては、其君主なる者、歳中の大祝日(正月元旦の類)に当り、配下の貴族を集会せしむるの旧典ありて、之を大会と名けり。固より此集会は唯礼式を盛にし王威の尊重を示すのみにして、其実は国政を商議するの趣意には非ざりしなれども、時としては故さらに之を会して国の大事を評議せしこともありしと云う。紀元1146年、仏蘭西王シントロイス神征の師を出せしとき(神征の師とは欧羅巴人宗旨の為めパレスタインを伐ちし役を云う)諸方の名代人を集めて衆議せしことあり。之を議事院の権輿とし、パルリメントの名、始めて此に於て起れり。然れども爾後仏蘭西に於て議事と称するは、只刑法裁判の衙門のみにて、議政院には此名称なし。欧羅巴諸邦の内にて、大政商議の官衙へ議事院の名を下したるものは、英国(蘇格蘭を未だ并せざる以前を云う)蘇格蘭及びネイプル(伊太里の南国)を始とす。ネイプルの議事院は1200年代に始り、国王の命を以て国の貴族を会し、又時としては城邑より平人の名代人を出席せしめしこともありし。
昔し英国に於てノルマン及びプランテージネットの世には(1066年後をノルマンの世と称し、1154年後をプランテージネットの世と称す。事は西洋事情初編英国の史記に詳なり。)事を議するもの二会あり。其一を王室の大議会と名づけ、貴族名家の集会なり。其一を小議会と名づけ、国中平民の集会なり。固より此時代に於ては、国王の威権妄りに強盛にして、非理非道の挙動多しと雖ども、此大議会にも自然権威を有して、国の大政に参り、裁判刑法の事を司て王室を補翼し、或は宗旨法教の事に関係し、或は和戦の事を議し、或は国王に建言して人を黜陟するの権を握れり。ノルマンの世には此大議会の集会に定例の式日ありしが、ステフェン(1135年即位)在世のとき内乱の起りし其後は、之を会するに定日なし。
小議会の議者は国王より命ずる人にして、常に輦轂の下に居り、大議会の衰うるに従て次第に権柄を盗み、議事院の体裁を成せしときに至ては、其権柄既に甚だ盛なりしが、1215年ジョン王のとき、マグナチャルタの法律を設け、大議会にて用金及び収税の権を執りしより、王家収斂の暴威を制し、大議会の権勢再び盛なりしと云う。(西洋事情初編第3巻第8葉を見る可し)
右の如く大議会の集会せるものを議事院と名づけしことなれども、其中の事情及び随時の改革に至りては、旧史の中にも其詳を見ず。蓋し此大議会の議者は皆国王の臣にして土地を領したる人ならん。1200年代ジョン王のとき設立せし法に拠れば、国中の大僧、教師、大諸侯を会するには、一人毎に其姓名を掲げ之を召し、其他下等なる貴族は土地の奉公より一般に之を召すを例とせり。是れ即ち英国の貴族会議に上下の別を生ぜし所の起原なり。
其後名代の員を会するの風に至るまで屢々変革ありしことなれども、其由来を詳にし難し。ジョン王即位15年、偶々事故ありて、各州の奉公に命じ、一州より武士4人ずつを召したることあり。之を名代人の始めとす。(武士とは、封建の世に当り帯刀の免許を得て軍役を勤むる者なり。英語之れをナイトと云う。方今にては全く古風を改め、古の所謂武士なる者なしと雖ども、其名称は尚お存せり。)又下て第3世ヘヌリ(1216年即位)王の即位49年、諸州に命を下して武士4人ずつを選挙し、下等貴族の名代として、会議のとき諸侯の坐に陪侍せしむ。又其次年、議事院会議の命を下したることあり。此時の召には大小僧侶、貴族を始とし、又諸州諸郡の奉公に命じて、武家、町人、2名ずつを選び、又別に5港より各々4人ずつを選挙せしめたり。(5港とはハスチングス、ロムニ、ハイテ、ドーウル、サンドウィチを云う。当時繁盛の港なり。)爾後諸州の人物を選挙するが為め其奉公へ命を下したるは、第1世エドワルト王の即位18年(1289年)より始り、城邑の人物選挙を命じたるは、同23年(1294年)を始めとし、其以前の事情は詳に知り難し。然りと雖ども諸侯より政府へ納む可き貢税用金の事を商議し、其他政府の事務を参議せしむるが為め、諸州諸郡の名代人を召して時々会議を為せしこと推知すべし。第1世エドワルト王の世には、1歳4次の会議を為すの例あり。固より此会議は議政の趣意に非らず。只国王の私臣を会して裁判刑法の事を議するのみなりしが、エドワルト王即位の23年後より、国法を議定するの為め、国内の貴族、名代人を会同して例年の会議に出席せしめ、時々国王に謁見せしことあり。
当時英国の政体は其実の如何ありしを知り難しと雖ども、第3世エドワルト王の即位15年(1321年)に当り、始めて新令を布告せり。其令に云う。国政議定の権は国君に帰すと雖ども、教主貴族及び平人の会議を設け、其応諾を得るに非ざれば政を国内に施す可らずと。此法一度び定まりてより、会議の敗るることなく、政体の変ずることなく、以て今日に至れり。只其中絶と称す可きは、1649年より1660年に至るまで、コロムエル執権の時のみ。(西洋事情初編第3巻第19葉を見るべし)
議事院上下の2区に分れたるは其年月を知る可らず。但し当時も教主と貴族と平人とは各々其会議を3所に分て収税等の事を議し、且彼此の間、自ら尊卑の別ありて、平人の名代なる者は貴族と席を同うするを許さざりしと云う。爾後上下人員の増減はありしと雖ども、蘇格蘭を合幷せしまでは、此院の体裁に於て大なる変革あらず。
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