【現代表記】 福沢諭吉 「西洋事情」 (フランス 海陸軍)

底本には小泉信三監修『福澤諭吉全集』第一巻(再版)所収の「西洋事情󠄁」を使用した。


西洋事情二編 巻之四
 仏蘭西フランス
  海陸軍


 仏蘭西フランスの海軍は近頃百年以来屢々しばしば盛衰せいすいあり。第14世及び第15世ロイスの時代に一度び盛大を極め、その後次第に衰て、また1855年の改革にり再び旧時の盛なるに復したり。1780年(第15世ロイスの時代に当る)の海軍は、第一等艦60せき、第二等艦24隻、以下小艦182隻、共計軍艦の数266隻、大砲1万3300門、水士7万8000人なりしが、1790年に至ては其数減じて、軍艦246隻、水士51000人、大砲1万ちょうに足らず。爾後じごお一層の衰微を致し、1805年タラファルガルの戦には(巻の四第一葉をみるし)にはフランスの軍艦を用いたれども、其数わずかに18隻、大砲1352門のみ。1844年(ロイス・ヒリップの世)には、帆前船ほまえせん226隻、蒸気船47隻、大砲8639門、水士2万4563人とり、1855年に至るまで増減なし。同年第3世ナポレオン帝、海軍改革の命を下して大に軍艦を製造せり。其種類左のごとし。

第1 
 帆前船の形を変ず可きもの(蒸気船に変ずるを云う)これを第一種とす。

第2
 飛船40隻、尋常のフレガットにて遠方へ航海す可きもの20隻、以下の船艦90隻、共計150隻とす。

第3
 運送船75隻、兵士4万人、軍艦1万2千ひきす可し。

第4
 小船隊、およそ125隻。

第5
 諸港守護の軍艦、凡そ30隻。

 以上軍艦の数、合して380隻、このほかに帆前の運送船20隻あり。此数を加れば総数400隻の軍艦あり。1865年の春に至ては、仏蘭西フランスの海軍に甲鉄艦34隻あり。これに備うる大砲776門、蒸気の力、合して1万9075馬力。甲鉄艦の内、最も大なるもの二隻あり。一をマゼンタと云い、一をソルフェリノと云う。各々大砲25門を備え、蒸気の力1000馬力なり。

 仏蘭西フランスにて海軍の人をつのるは、其法、陸軍に異ならず。1683年より既に此法則あり。国中水辺の業をもちて生と為せる男子の姓名を記し、年齢18以上50以下の者えらびて之をえきす。

 1863年海軍事務執政しっせいの公書にるに、仏蘭西フランス海軍の士は第一等水師提督ていとく2名、第二等在勤の水師提督12名、同預備よびの水師提督14名、第三等在勤の水師提督24名、同預備の水師提督20名、第一等軍艦の指揮官130名、フレガット艦の指揮官270名、第一等士官750名、第二等士官600名、第一等稽古けいこ士官300名、第二等稽古士官270名、其他各処常住の士官75名、総員合して2467名、水夫かこの数3万2854人、外に又蒸気方、医員、教師等、合して海軍に関係する人員3万9254名なり。海軍学校はツーロン、ロリーント及びブレストに在り。ブレストには大船を繋ぎ、船中に生徒を入れて教授を為すと云う。此他海軍の小学校は国中に44所あり。

 仏蘭西フランスの常備兵は第14世ロイスの時代より始りしものなれども、現今行わるる所の法は、騒乱の時代及び第1世ナポレオンの世に其もとを立てしなり。兵士を募る法、国中の男子21歳に満たる者は軍役をまぬがるるを得ず。在昔ざいせきは毎年8万人を募るの法なりしが、1853年より1855年に至るまで東洋戦争の時には、募兵ぼへいの数を増して毎年14万と為し、1857年には又これを減じて10万人と定め、伊太里イタリアの戦争に及びまた14万人と為し、其後1861年以来は旧法に由て10万人と定めり。

 兵士在役の年限は7年を以て定法じょうほうと為すといえども、6年より長きものはまれなり。大抵6年の後は家に返し、新募兵と合して預備と為す。

 毎年新募兵の数は多しと雖ども、常備の員に加わる者は其内の一部のみ。他は皆屯所とんしょに於て6箇月かげつの間、調練の業にかしむ。此6箇月の調練を3年の間に行うが故に、練兵れんぺいの時は毎年平均して2箇月のみ。此法に従い1860年には生兵せいへいの熟練せる者3万955人、1861年には3万3234人を得たり。けだし此法則は第3世ナポレオンが瑞西スイスに在て親から実験せしものを、1860年より以来仏蘭西フランスの陸軍に施行せしたり。

 兵士の員に募られたる者は金を以て陣代の人を買う可し。昔日は此陣代を求るに相対の談判にてあたいを定めしなれども、1855年第8月新令を下だし、政府にて此売買の権を占め、陣代の価を官に取て、官命を以て老練の兵士に其軍役の年限を重ねしむるの法を定めり。これより軍役を以て生活を為さんとする者はよろこんで他の陣代を勤め、常備兵の内におのずから老練の兵士を増したり。陣代の価は政府より之を定め、毎年高低あり。1855年には其価2800フランクなりしもの、1857年には下落して1800フランクと為り、其後又騰貴とうきして2800フランクと為りしが、1863年軍務執政の命を以て2300フランクと定めり。政府は此金を収めて軍備の元金と為し、練兵の重年ちょうねんするときに若干じゃっかんの高を与え、在役7年の後は給料を増し、14年の後は更に又之を増し、の如くして45年の役を勤めし者へは役を免じ、1日に1フランクの扶助ふじょ金を与うるを法とす。すべて兵卒は其筋骨、用に適するの間、軍役の年期を重ぬるを許す。給料なき郷団の兵は其数次第に減少せり。1852年前は郷団の数、毎年1万人なりしもの、其数ようやく増加し、1855年には2万1955人となりしが、1860年に至てはわずかに2192人のみ。

 左の表は1864年仏蘭西フランス陸軍の備を示すものなり。

(省略)

 仏蘭西フランスの全国を4大区に分て兵備を立て、毎区1人の総督ありて之を支配す。此4大区の内を分ち、又これを細分して、各々兵備の局あり。

 国中119城あり。其内第一等のもの8所、パリス、リオン、スタラスボルフ、メッツ、リルレ、ツーロン、ブレスト、セルボルフ、これなり。第二等の城12所、第三等23所、第四等76所なり。パリスの城を築くに2億フランクを費し、セルボルフの城に1億7000万フランクを費したりと云う。仏蘭西フランスにて常備兵を養うには其費、英国の兵備よりすくなし。英国にては平均兵士1人に付、1年に101ポントを費す割合なるに、フランスにては僅かに43ポント1シルリングなり。1864年仏蘭西フランス陸軍の費用3億7000万フランク、すなわち英の貨幣にして1480万ポントなり。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?