【現代表記】 福沢諭吉 「ライフル操法」 (後記) 富田正文

底本には小泉信三監修『福澤諭吉全集』第二巻(再版)所収の「後記」を使用した。


後記

富田正文

 本巻所収の原拠とその関係資料について記しておく。

 雷銃操法 木版和紙3冊本。18×12・5cmの小型本で、網目模様の地紋の濃藍色こいあいいろ表紙。左上に、子持罫こもちけいの枠の中に「雷銃操法 一」(二、三)と記した題箋だいせんを貼る。見返しは黄色の和紙を用い、太枠の中を縦3ッ割に区切り、右側に「千八百六十四年第十二月 英國開彫」中央に「英語ライフル/蘭語ミニーゲウェール」と角書きした下に「雷銃操法」と大書し、左側に「福澤氏藏版」と記し、その文字にかむせて「Copyright of 福澤氏」と刻んだ長方形の朱印を押捺おうなつしてある。巻之二と巻之三との見返しは、右の「千八百六十四年第十二月」の文字を「千八百六十七年第二月」と改めてあり、巻之二の見返しに限り、右下隅に「二編」と刻んだ楕円形朱印が押してある。その他は巻之一と同様である。

 巻之一は目録2丁、訳例2丁(第3―4丁)、本文46丁(第5―50丁)、挿入附図3枚、ウラ表紙の内側に「慶應三年丁卯暮春/東都書林/和泉屋善兵衞發兌」と記した奥附おくづけが貼ってある。

 巻之二は題言1丁、目録1丁、本文1よりおこして52丁、挿入附図2面、奥附おくづけは右に同じ。

 巻之三は題言1丁、目録1丁(第2丁)、本文1よりおこして38丁、奥附おくづけは「明治二年己巳十二月/官許/禁僞版 慶應義塾藏版」と記して、ウラ表紙の内側に貼ってある。

 この書は1冊ずつ別々に発売されたもののようであるが、刊年月を正確につきとめることが困難である。巻之一の訳例の末尾に「慶應二年丙寅九月」と記してあるが、奥附おくづけの刊記には「慶應三年卯暮春」とある。訳例の末尾の年月は脱稿のときと見て差支さしつかえないであろう。それから半歳を経て翌年の暮春(3月)の発兌はつだとなったものと見て、巻之一は慶応3年3月刊としてよいと思う。〔巻末の再版追記参照〕

 問題は巻之二である。この本は題言に年月の記入がなく、奥附おくづけの刊記は巻之一と同様、「慶應三年丁卯暮春」とある。一見すると、巻之一と二とが揃って刊行されたかのように受け取れる。ところが題言に「この書巻之一は1864年英国開版の原本を訳したるものなれども、その後1867年の新本を得たるにつきすなわち此第二巻は新本の翻訳なり。故に書中の箇条、初巻の目録と齟齬そごする所あれども云々うんぬん」と記してある通り、巻之一とはオリジナル・テクストを異にしている。1867年は慶応3年である。その年の2月は、わが1月にあたり、慶応3年3月は陽暦の4月にほぼ相当する。イギリスで2月に出版された新版が、日本に渡って福沢の手に入り、翻訳されて出版されるまで、僅かに2ヶ月というのは、巻之一が訳了から出版まで7ヶ月を要しているのに比して、余りに早すぎると思われる。慶応3年季冬刊と称し実際には翌年夏に発売せられたと推定される「西洋事情」外編の巻末に、慶応義塾蔵梓ぞうし目録が載っていて、それには慶応3年季冬刊の「西洋衣食住」は掲載されているが、その年の暮春刊の「雷銃操法」は載せられていない。更に巻之一と巻之二との奥附をしらべてみると、これは全く同一の版木はんぎを使って刷られたもので、両者の間に釐毫りごうの差もない。つまり、巻之二の奥附は、その発兌はつだの際に、便宜べんぎ的に巻之一の奥附をそのまま添附して製本したものと察せられる。しからば、巻之二は実際にいつ発兌せられたのかといえば、もちろん正確に断定することはできないが、右の「西洋事情」外編の刊行よりも後、すなわち明治元年の夏以降のことと推定して、ほぼ誤りがないのではなかろうか。

 巻之三は、題言の末尾に「明治二年己巳初冬」とあり、奥附おくづけに「明治二年己巳十二月官許」とあるところから推定すれば、初冬(10月)脱稿、12月出版許可という手順を経て、明治3年の春か夏の頃に発兌はつだせられたものと思われる。

 明治3年10月刊の「西洋事情」二編の巻末に附した慶応義塾蔵版目録に、初めて「雷銃操法」の名があらわれ、次のように記してある。


雷銃操法 初編 一冊
 この書も偽版の噂あり他の例に従えば実説ならん
同    二編 一冊
 勿論もちろん右同様なり
同     三編 一冊


 これによれば、偽版が刊行されていたと思われるが、われわれはまだその偽版の実物を見ていない。往々にして「Copyright of 福澤氏」の捺印なついんのない版本も見受けるが、今日まで見た限りでは、いずれも真版と思われる。

 本全集においては、明治版全集を原拠とし、右に述べた版本を参照して校訂した。

 この書の訳述に至るまでの経緯については、「福沢全集緒言」の「雷銃操法」の項につまびらかであるが、その末尾に、明治時代にける村田銃の創始者村田経芳つねよし少将と明治17年に砲兵工廠こうしょうで面会のとき、少将が壮年時代にこの書によって教えられることが多かったと聞き、主客一場の笑を催したことがあると記されている。この文面だけから見ると、福沢はそのとき初めてこれを知ったように受け取れるが、村田の懐旧談(石河幹明かんめい著「福沢諭吉伝」第一巻481頁)によれば、村田はこの書の刊行当時、福沢を訪ねて書中の不審を質問し、福沢から自分は英書を翻訳しただけで実地上の細かいことはわからないと答えられ、イギリス公使館附の武官に就いて更に研究を重ね、書中の翻訳の確かなことを福沢に語り、射撃術普及のためにかけを許すことなどを語り合ったことがあったが、明治17年に砲兵工廠へ福沢を招待したとき、先年の礼を申し述べたところ、福沢はそのことを忘れていたということである。


 〔再版追記〕 後記の670頁5行目に「雷銃操法」の発売時期について「それから半歳を経て翌年の暮春(3月)の発兌はつだとなったものと見て、巻之一は慶応3年3月刊としてよいと思う。」と記したが、第17巻32頁所収の第24号書翰しょかんにより、巻之一は慶応2年11月末か12月頃の発売と見て差支さしつかえないと思われる。これは初版の第21巻「補訂正誤」欄、第461頁上段にすでに記したことであるが、ここに重ねて記しておく。従って同頁13行目の「巻之一が訳了から出版まで7ヶ月」は「3、4ヶ月」と見なければならない。

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