【現代表記】 福沢諭吉 「英国議事院談」 (例言)
底本には小泉信三監修『福澤諭吉全集』第二巻(再版)所収の「英國議事院談」を使用した。
議事院談 巻之一
例言
一 是書は英人ブランド氏所著の学術韻府中、議事院の部を訳述し、乃ち其箇条に原づき、傍らブラッキストーン氏の英律、及びビール氏の英国誌等、其他英亜諸家新著の諸書を撮訳したるものなり。訳文の体裁は務めて原意を錯らざらんを以て主とせり。然れども彼国の制度法律等に至りては、東西の風、素より同じからず。我耳目に慣れざるもの許多にして、実地に接するに由なければ、其情状を詳かにす可らず。故に書中恐くは事義の不分明なる所と訳語の妥ならざる所あらん乎。只博雅君子の訂正を待つのみ。
一 西洋各国、大抵皆な国王を奉じ、法律を定めて政を為すの風なれば、此法律を議定するが為めには、国民の会議を設け、遍く衆議を采るを以て政治の本旨と為すと雖ども、一国は自から一国の流風古格なるものありて、政治の体裁必ずしも各国同一ならず。或は衆庶会議の名称を存して其実尠なきものあり。方今欧羅巴洲に於て、事実議政の大会を設け、上下同議の政治を立て、名実相協うものは、独り英国を以て然りとす。是れ余が是書を訳述するに、特に英国の議事院を詳論せし所以なり。既にブランド氏の学術韻府に云う。近来欧洲諸国に行わるる所の立憲の政体は、元と封建世禄の流風に原づきしものにて、国人の名代を会し、君上と寺院と貴族と平民と、各々自家の利害を計りて其旨意を達するものなり。英国の政治も其由て来る所の原は同一なりと雖ども、年代の沿革に随て一種の体裁を具え、他国の政に比すれば更に尚お斉整せしものと云うべし。ビール氏の英国誌に云う。英政の他に超越する所は、三種の政体を合して其調剤宜しきを得るが故なり。三種とは何ぞや。衆庶会議(下院を云う)貴族会議(上院を云う)君上専権、是なり。往古羅馬の世に卓識の政談家ありて、既に茲に着眼し、此三種の政体を合しなば始めて美政を見るべしとの説を唱えり。然れども其論、当日の風に叶わず、人皆之れを妄誕と為せしが、千百年の後、英国の政体に於て始めて其実際を見得たり。ブラッキストーン氏の説に云うあり。衆庶会議は国法の旨意を立て其方向を定むるに可なり。貴族会議は其旨意を達する所の術を工夫するに可なり。君上専権は其術を実地に施すに可なり。唯衆庶会議の政は、動もすれば其策略愚に属して且之れを施行するに威権なし。然れども其志す所は真正にして常に報国の心を存せり。貴族会議の政は智略に富めりと雖ども廉恥の義に乏しく、且其威権は君上専権の政に及ばざること遠し。君上専権の政は威権赫々として盛強、議政の権と為政の権とを合して一手に其柄を握れるものなれば、恰も政府の脈絡を綴り其神経を縫合するが如し。然れども其強威を逞うして漫に方向を誤り、之れを抑制するもの無きときは危害亦恐る可しと。蓋し英国の政体は此三者を兼有して鼎立の勢を成し、斉整調剤の方、其中を得、以て万国に卓越して太平を歌うものと云うべし。
一 巻末に於て龍動府の景勝を記したるは、素より是書の本旨に非ず。然れども大都会繁栄の風色を顕わし、以て此大都会にして此大議事院あるを知らしめんが為め、聊か議事院所見の一斑を示すのみ。看官幸に之を贅視する勿れ。
一 英国は英倫、蘇格蘭、阿爾蘭、及びオールスの四国を合併したる総称なり。或は阿爾蘭を除き、其余を大不列顛と称することあり。故に英国王は大不列顛及び阿爾蘭を併せたる合衆王国の君と称す。是書中、英の本国と記したるは、即ち英倫を指すなり。
一 里法は皆英の里法に従えり。即ち英の1里は我14丁43間に当る。
一 尺と記したるは、英の1フートにて、我1尺に当る。
一 英の貨幣1ポントは我3両2歩に当る。
一 シルリングは1ポント20分の1なり。
一 ペンスは1シルリング12分の1なり。
明治2年己巳仲春
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