【現代表記】 福沢諭吉 「西洋事情」 (オランダ 史記) 

底本には小泉信三監修『福澤諭吉全集』第一巻(再版)所収の「西洋事情󠄁」を使用した。


西洋事情 初編 巻之二

福沢諭吉 纂集さんしゅう

荷蘭オランダ

史記

 羅馬ローマの世に当て、バタフィヤンと唱る人種、荷蘭オランダの地に住居し、好て戦争したるは、紀元前100年のことなり。その頃ろ近傍きんぼうの地に在るベルジー人は、草昧そうまいの世に於てすでに貿易を勉め、この風習後世に伝て荷蘭オランダ国貿易の基礎をなせり。紀元前9年、レイン河とアイスル湖との間を掘て水道を通じ全国の地理を一変したるは、大土木とうべし。其後バタフィヤン人は羅馬ローマ帝国の保護をこうむり、羅馬ローマ人に接して国内ようやく開化に進み、また紀元500年の間はフランクス(仏蘭西フランスの始祖)に属し、800年代のなかばに至てチャルレマン帝(仏蘭西フランス伊多利イタリア日耳曼ゲルマン一統の国帝)の為めに押領おうりょうされたりしが、此時代は封建ほうけんの風、世に行われて、バタフィヤン人も再び独立し、分れて数小国とれり。すなわちゴルドレス、ブラバント、リュクセンビュルグ、リムビュルグ、アントエルプ、ホルランド、セーランド、ソットフェン、フランデル、アルトイス、ハイノート、ナームル、ユトレフト、オーフル・アイスル、ゴロニンゲン、フリースランド、メクリン、これなり。これ荷蘭オランダ17州の旧地とす。右17小国の内フランデル国を上位に定めて他諸国の総督をなせしが、1300年代に至り其君婚姻の縁をもちて位をビュルゴンジ家に譲りたり。爾後じごビュルゴンジ家の君も其例にならいて位をオーストリヤ家に譲り、第5世チャーレスに至て17国を一統し、其太子第2世フィリップに国位を伝えたり。フィリップ位についてより苛刻かこくの令を下して異端の宗門を改めんとし、其他種々惨酷さんこくの政を行いたるによりついに人心を失い、国内の7州謀反むほんして別に合衆政治を建て、イルレム(オラニーこう)を推して大統領となせり。(オラニーは現今荷蘭オランダ王の姓なり)1500年代マラッカ諸島を取て海外の所領と為し、其地に産する胡椒こしょうの類を諸方に貿易して独り利をもっぱらにせり。1600年代の末に至ては荷蘭オランダ人の貿易盛大を極め、およ欧羅巴ヨーロッパの商船、半は荷蘭オランダよりでたりしが、其後屢々しばしば戦争を起し、かつ諸国の商船漸く増加して貿易を勉るに及て、荷蘭オランダの貿易も遂に其名誉を落せり。仏蘭西フランス王第14世ロイス兵を挙て荷蘭オランダを攻めたるときは、荷蘭オランダ人皆船に乗て遁走とんそうし、返て其海岸を襲い、遂に仏蘭西フランスの兵をおいて国を全うするを得たり。其後大乱の始め(ナポレオンの大乱を云う)仏蘭西フランスあわせられ、1795年より合衆政治を立て、1806年に至て仏蘭西フランスより第1世ナポレオンの弟ロイス・ナポレオンを以て荷蘭オランダ王と為し、4年を経て1810年また仏蘭西フランスより之を廃して、荷蘭オランダの土地を全く仏蘭西フランス帝国の版図はんとに入れたり。此時に当て荷蘭オランダの貿易は全く地に落ち、海外所領の地もことごとく英国に奪却だっきゃくされたり。(此時荷蘭オランダの国旗をひるがえせる地は世界中ただ長崎の出島でじまのみと云う。今に至て荷蘭オランダ人の忘れざる所なり。)1814年ナポレオンの軍、敗績はいせきして、欧羅巴ヨーロッパ各国、和議を結ぶに至て、オラニー侯第1世イルレム再び本国を領し、海外所領の地も23所は急に復するを得たり。1816年各国の協議に由てオラニー侯の位を進めて荷蘭オランダ王と為し、荷蘭オランダ本国ならび白爾義ベルギーを一統せり。1830年白爾義ベルギーの人、荷蘭オランダの政治宗門に従うを欲せずして乱を起し、別に一国を建てり。即今そっこんの王国白爾義ベルギーなり。1840年第1世イルレム国位を其太子第2世イルレムに譲り、1849年第2世イルレム死し第3世イルレム立つ。今の荷蘭オランダ王なり。

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