「マズローの心理学」P.40

マズローの心理学シリーズ第2弾。
今回もかなり濃い内容です。

「自己実現している人は自分の期待や願望によって自分の見解を曲げることはない。人間を正確に判断し、偽物やインチキを見抜く点において、彼らは平均人とは並外れた能力をもつ。概して言えば、彼らの結婚相手の選び方は、平均人に比べて、もちろん完ぺきとは言い切れないが遥かに適切である。自己実現する人間は卓越した認知能力の故に決断力に富み、善悪を見分けるより明確な観念を持っている。彼らhあより正確に未来の出来事を予想出来る。これら「完全な人間性」をもつ人々が物事をより有効に見極め、その判断力がより適切であるこの能力は、人間だけでなく芸術、音楽、政治、哲学などの理解を含む、人生の多くの領域に広がっている。自己実現する人間は平均的な人に比べれば、うかがい難い混乱した現実を、より早くより正確に見透かし、かつ見極める事が出来る。
そのうえ更に彼らは一種の謙遜を持っている。彼らは他人の意見に耳を傾け、自分はすべてを知っているのではなく、他人から何かを教えてもらえるのだということ認めている。この卓越した認識能力は自己を適切に理解していることに起因する一面が言えよう。
このことは、子供のような単純さおよび傲慢の欠如と定義され得る。子供は仙遊間や早合点無しに聞くことの出来るこのような能力を持っている事が多い。「子供は世界を、状況を論じたり状況が変わる事を要求したりしないで、ただあるがままの事態をそのまま認めながら、広大な没批判的な、無邪気な眼差しで眺めるように、自己実現する人も、自分自身や他人の人間性をそのような眼差しで眺めるのである。



私が自己実現に拘る理由はこれらの自己実現的人間みらえる卓越したその能力の高さにあります。それでいて先の言葉にもあるように謙遜でき、人の言葉に耳をかすことが出来る、それでいて自分自身を適切に理解し、世界をあるがままに見れる能力と言うのは私が目指す経営者としての素質とそのまま一致するのです。
また人間としてもそうありたいという自分自身の理想像とも完全に一致するからこそ、私は欲求段階説についてかれこれ10年以上も考えています。
また、私が栄養学や生理学を学んでいるのも最終的にはこの自己実現的人間になることが目標であり、それを科学的になし得ようとする想いこそが私のモチベーションでもあります。

P.42「自己実現の研究」
自己実現した人間の認識は願望・不安・恐れ・期待・誤った楽天主義や悲観主義によって乱される事は比較的稀である。
マズローはこの没批判的な認識のタイプを「存在認識」あるいは「B-認識」と名付けた。これは受け身的で受容的な物の見方のタイプである。
彼はそれを「無欲意識」とも呼んでいる。
存在認識だけでは十分ではない。マズローの指摘によればそれは過度の容認、無差別の受容、好みの喪失に導かれうる。
従って、これら完全に成熟した人間は二通りの方法で、すなわち瞑想的(存在認識)および決断的に、認知する。
認識が後者の認知に変われば、決断・判断・避難・計画および行為が可能になる。

この章では自己実現者の認識について述べているのですが、ここでもやはり自己実現者の認識が一般的な認識とは異なっている事が伺える事を彼は指摘しています。
この章にある「誤った楽観主義・悲観主義」というのは普段、私もよく目にします。
「この人は何も考えていないのか?」
「なんでそんなに悲観的なんだろう?」
と感じる考えが正にそれです。現実的ではないポジティブやネガティブと言い換えれば受け入れ易いかもしれませんね。
この手の考え方をする人に、確かに自己実現的な人はいませんでした。
自己実現的な人は良かれ悪しかれその場で出来る最善の選択をするために、必要な情報を集めようとします。起きた事そのものを批判せず、ただありのまま受け入れ、そしてその時点での最善を尽くすために情報を収取します。
これが「受け身的で受容的なものの見方」とマズロー博士が言っている事ですね。しかしそれでは過度な容認や無差別の受容、好みの喪失を招く、故に自己実現者はあくまでも受身的で受容的なものの見方をするものの瞑想的=存在認識的に決断する、としています。ここが少し難しい所で瞑想的に認知し、決断、判断、非難、計画および行動する事が可能になるという事ですが、この表現はかなりニュアンス的な表現を含んでいて分かりづらい所でもあります。
この瞑想的という言葉自体がかなり曖昧な言葉なのですが、要約すると
「存在や事実を否定せず、ありのままを認め、認識し、それらを無意識的(都合の良い事実を作る為ではなく)に統合し時に必要に応じて然るべき非難をし、事実を明確にして結論を出し、最善の行動、計画を立て、実行する。」
という事だと思われます。
人と言う者はよく自分の都合の悪い事態を非難したがりますが、自己実現者においてはそれがなく、あくまでも受身的にそれらの不都合な事実を受け入れる。しかし、例え不都合な事実であっても自己実現者はそれらをただ非難するのでなく、瞑想的にありのままを受けいれ、しかるべき対応をする。
ここで言う非難は「存在の否定」ではなく「本来はそうあるべきではないが」と言ったニュアンスを含む非難です。存在そのものの否定と言うよりも「そう言う事は本来的には存在しないに越した事はないのであるが」と言った意味での避難であると考えられます。
まさしく、こうした起きてしまった事実を否定しない受容的な物の見方、それでいて感情的批判無しに最善の決断・計画・実行を必要するというのは経営者に求められる素質です。それでいて事実の否定ではなく、「存在の非難」というのも非常に重要な観点だと思います。

自己実現する人間は、重要とみなす何らかの仕事・課業・義務あるいは職業に、例外なく専念している事を彼は見出した。
彼らは仕事に興味をもっているからこそ懸命に働くのだが、普通にみられる仕事と遊びの区別が曖昧になっている。
彼らにとっては、仕事は楽しくて堪らないものなのである。
(私にとっての学びが正にそれであるように。)
大切な仕事に没頭することは成長、自己実現、幸福にとってきわめて必要なことである。しかし、大切な仕事があるというだけでは十分ではない。
自己実現する人間はそれを完全にやり遂げなければならないのである。
医者なら優れた医者でなければならず、藪医者であってはいけないのである。このことは仕事、規律、訓練、あるいは時には楽しみの後回しを含んでいる。(私が酒や肉を食べないのもこの「後回し」が故である。)

この章では更に自己実現者の仕事に関する特徴についても言及しています。
カッコ内は私が追記したものですが、まさに自己実現に向かっている私もこの特徴を有していますし、私が見た自己実現者たちもこの特徴を有していました。
この文で特に重要なのが「自己実現する人はそれ(仕事)を完全にやり遂げなければならないのである」という指摘です。
本当に自己実現をしようとしている人の仕事と言うのは一般に従業員として雇われている人のそれとは完全に一線を画します。
彼らの仕事はやらされているのでなく、仕事と自己実現の境が既に曖昧になっており「仕事の完成=自己実現の達成」という、通常に人とは違った価値観をもっている事が多いと言えます。
会社にある評価制度が、上司からの評価が、出世が、とかそういった類の承認欲求による動機付けではなく、これは別書「人間性の心理学」で述べられていますが
「画家が絵を書くように、彫刻家が彫刻を掘るように彼らはそれをしなければ病的な状態になってしまうのである。彼らにとってはそれが自然なあり方なのであり、しなければならないからしているのではなく絵を書くことはそれ自体に意味があり、そして絵を書く事が彼らの本質的な自然な在り方なのである」
というようにとても自然な内的動機付けによる行動なのです。
自己実現者も色んな職業に就いていますが、彼らは義務からそうするのではなくそうする事が自分である、というもの凄く自然な動機付けからそうしているのです。
もちろん、生活をするためといった安全の欲求に属した欲求もゼロではないと思われますが、それでも普通の人々が思う安全の欲求に比べればその割合は低く、低次の欲求に支えられた行動では無い事が大半ですし、彼らは低次の欲求を充足しなくとも生き抜くだけの強い自己実現欲求を持っている事が大半です。だからこそ、「楽しみの後回し」が可能になるのだと言えます。
これはマイナーな脳科学だか心理学本で読んだので出典が思い出せないのですが「報酬の延長」と呼ばれるものだそうです。
この点については前頭葉の働きとも非常に関連性が強いのでまたの機会に言及したいと思います。

今日紹介したページの内容はこの本でも自己実現についてより詳しく言及していく章の初頭に書かれており、非常に示唆に富んだ内容になっていると感じます。
また、マズロー博士の研究の初期に考えらえた自己実現者に対する考察が含まれていて、これが後年徐々に変化していくことを感じる意味でも非常に面白い部分だと思います。

という事で今日はこの辺で。

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