アートとしての思想

昨日、とある芸術家のお宅兼アトリエにお呼ばれして遊びに行ったんです。
アーティストととして活躍してる彼と出会ったのはとある方の誕生日会でその方がプレゼントに絵を持ってきていたのがきっかけで知り合いました。
なんでしょう、まさかここまで話が合うとは思わずその中で分かった事があったので書き留めて置こうと思います。

「思想もアートである」

自分にとって思想はまさにアートであると言うこと。思想はデザインされた考え方である。

考えを形にするとき、私は必ず言葉を一語一句選びます。理論が出来ていても言葉が選べない場合は形にしません。
どんな理論であっても私はその言葉を脳内で再生したときに違和感が無いように助詞や接続詞が重複しないように選び、「しかしながら」と言った具合にアクセントを付けるなどしてリズムを変えたりもします。
これは単に私が言う理論と言うものがただの理論なのではなく、そこに意図したデザインがあると言うことなのだ、と昨日ようやく気付けたのです。

「言葉尻がしっくりこない」
「この理論を表現するための言葉の構成が思いつかない 」

私の研究の対象はあくまでも科学ですが、けれどもどこかで科学とは違うという感覚を覚えていました。
しかし芸術家の方と出会って、そして考え方に触れて「これがアートなんだ」と言う事にようやく気付けました。

思想というのは非常に体系的な考え方で矛盾があってはならないし理路が整然されていなければなりません。思想家ではなくと自らの考え方を公表していらっしゃられる方は大勢いますが、体系化はされていません。
また、その考え方に至った経緯を説明できない、その考え方がなぜこの現実社会に適応し得るのかを説明できる人になるともっといません。
また、彼らはあくまでも自分の考え方を世に発表しているにすぎず、その考え方に特に責任をもっている訳ではありません。あくまでも自分の考えであってそこは憲法が保障する思想の自由に該当するものであります。

しかし、これを料理人に例えると分かり易いので料理人の料理で例えますと普通の人が自分で料理をする分には誰にも影響がありませんから特にその影響を考える必要がありません。しかし、プロの料理人では話が異なります。
彼らは金銭を頂戴して料理を提供しています。価値のある料理を提供することが彼らの仕事であり、それを生業としています。
素人が趣味で料理をするのとは完全に一線を画します。
一般の方々が自分の考え方を世に発表するのと思想家が自分の考え方を世に発表するのとでは素人の料理とプロの料理と同じくらいの差があります。
我々はそれを生業として生きていく為に決めた覚悟があり、提供するに際しては責任が生じます。思想家と名乗る以上、私が提案したアイディアや考え方が世の人の為になるものでなければならないのです。
これは料理人を名乗るものの料理が人を喜ばせる物でなければならないのと同様、名乗る以上はそこに責任が生じるのです。

和食の料理人であれば先付けから刺身、吸い物、ごはんもの、締めまで作れて当然のごとく、フレンチのコックならアペタイザーからメイン、ドルチェまで作れて当然のごとく、思想家もまた基本的な考え方から哲学や様々な考え方をコースのように全体を一貫する調和が取れた体系的な思想として提供出来なければ思想家とは言えないのです。

ここに自分の考え方をただ世に公表する者と思想家としての違いがあるのです。そして、私が思う思想というもはその言葉が脳内で再生されたときにそれがその人のこれまでのトラウマやしがらみ、社会的な洗脳や人生に役に立たないのにこびり付いている教育などを、すべて洗い流すものでなければならないと考えています。私は思想をもって世の中に蔓延っている洗脳と支配者階級にとって都合が良い、従属的な考え方をすべて一掃したいと考えています。つまり、思想というのは機能的でなければならないのです。
人生の役に立たなければその思想が存在している価値もなければ、価値が無いのであればそれが生業になることもありません。
価値のある考え方を構築する為には尋常ならざる勉強が必要です。
それでいて机上の空論ではなく、事実に基づく考えでなければなりません。
私の経験や過去の偉人の考え方ももちろ参考にしますが、私は思想にこそ科学が必要であると考えているのです。
そして、それがただ科学的であるだけではなく文学としての美しさがなければならない、とも考えています。
これまでも科学的ではない思想は私の思想ではない、とは考えていましたが「アート」「デザイン」「芸術」という概念がありませんでした。
今回お会いした芸術家の方のお陰でまた一つ扉を開くことが出来、そしてこれまで以上に思想というもの重要性、そしてアートが人生に必要である理由など多くの事を学ばせて頂いた、というお話でした。

真の料理人の料理が美味しいだけではなくそこには科学的にも正しい叡智が詰まっていて、そして見た目にも美しいというも同じ事であります。

「思想家として高祖父を超える」

これは私の人生のテーマでもあり、先祖への最大の孝行だと思っています。
高祖父西村茂樹の思想団体は今、公益社団法人弘道会として運営されていますが私はこの人生でその存在や高祖父のすべてを超えてみせると意気込んでおります。
とは言えまだまだです。私なんて地にも及ばない存在ですし彼の功績や思想に触れると今でも圧巻されますが必ず超えます。
それこそが私が生きる道であると言える人生に迷いは生じません。
まだまだ学びが必要です。
今回の気づきをきっかけに改めてこれ今まで以上に人々の役に立つ思想を構築するためにしっかりと学び、精進して生きていきたいと強く思った出来事でした。

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