五月病
やりたいことがあることが正義なのかな。
憂鬱になりながら仕事に行くのはダメなのかな。
仕事以外のコミュニティで人と関わるのは、そこを私の拠り所にするのは?
そっちの方が義務感なくて良くない?
優柔不断の私は、最後はいつもどう決めるんだっけ。直感が多かった気がするんだ。
兄に言われた「どう生きたいか、どこで生きたいか」が今、少しだけその問の意味が深く私に刻やまれてきた。
もしものことを考えると何も動けなくて、多くの人のアドバイスや意見をもとに私が行動に移せば何も出来なくてただ部屋でじっとしていることしかできなくて。けどそれは私の臆病な性格も相まって。
伝えるという軸がひとつ薄れてしまった今、私は鮮やかな色をした軸は見つからなくて、全てが淡色で、どれを自分で頑張って濃く染めていこうかを絵の具と睨めっこしているだけだ。
心がささくれている時に大切な人を傷つけてしまった。
漠然と将来について考え、行動している今は、無意味だなと昨日髪をドライヤーで乾かしながら思ってしまった。
人前で泣いた時に改めて、自分は苦しかったんだと実感する。
溢れてしまったらなかなか止まらない自分の涙はとても厄介だと思う。
一日のうちにどれだけ泣いても構わないけどお布団に入る時はせめて何もかもに鈍感でいたい。
信号がもうすぐ赤になろうとする横断歩道を全速力で走っていた女の人がいて、その後に悠々と男の人が赤になったにも関わらず歩いていた。
私は、色んな苦労があったんだろうなと女の人に対して同情の目を向けた。
それを友達に話したら、その女の人は時間を有効に使ったんだよ、男の人は周りの信頼を失ったねって言った。
慰められることより、見る角度が違うことに対して私はとても救われるから、だからその友達は私の中で大切なんだろうと思えた。
今のままの私で何も問題は無いと言われてるみたいで安心した。
人生の分岐点では常に停滞と優柔不断が付き纏うから、きっとこれが私の正常なのだろうと思えてくる。
仕方がないなと思うけれど、それを認められている。
異常だと思って否定し続けた日々よりも私はきっと私が好きだと思う。
自分が好きだから春の気候ほど変わりやすい自身の感情に付き合えるのだろうと思える。
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