旧世界ザルはこう言いました。
西暦で言うところの22世紀辺りが、宇宙の始まりの方、終わりの方、どちらの方により近いのか。
そんなふうにひと連なりの線のある一点に自らを置いておきたがる。
ともすれば、物語として語りたがる。
こんにちは、mesco iwata というアカウント名でここに文章などを投稿している者です。
mesco とは、メス戌&Co.(Mesinu &Company)の略称で、メス戌&Co.とは、このアカウントのプロフィール欄にもある通り「気が向けば音楽活動をする団体または個人」です。
かれこれ20年以上活動...もとい、存在しているメス戌&Co.ですが、去る6月2日に『旧世界ザル』と題したアルバムを制作し、デジタルリリースしました。
書き出しからこのことに触れるということはつまり、今から作者が自作について自ら語ろうとしているのです。そうなのですが、作者自身、この所業が世のほとんど誰の関心も誘わないことを理解しています。
そればかりか、書き始めたさきから逃げ出したくなって、下書きのまま二週間放置。このテキストによってあわよくば自作を聴いてもらおうという魂胆も、日を追うごとに遠のいていきます。
誰に望まれるでもないのに何故書こうというのか。しかし望まれるかどうかで問うのなら、日本語の記事がほとんど見当たらない海外のアーティストについて、十分にファクトに当たることも出来ずに所見を書くことと、極々僅かな人にしか聴かれていない自作について語ることの間にどれ程の差があろうか、否……などと、長々と言い訳めいたことを書くのも、ある種の逃避的な行動です。
さて、逃避もそこそこにようやく本題に入るのですが、引用枠で括った冒頭の文章は、どこか他所から引用してきた風に見せかけて、今回のアルバム2曲目に収録した「Girl, Won't You Tell Me Your Name?」という曲のリリックの一部です。
2017年の夏に作った曲ですが、直前に小松左京の『果しなき流れの果に』という小説を読んでいて、その影響がもろに表れています。
熱心なSF読みでもなんでもないので、1965年に発表された件のSF小説がその後の日本のSF界でどのように位置づけられて、後世にどんな影響を与えているのかなど全く存じませんが、とにかくとてつもない小説です。
時間、空間、平行世界、あらゆる可能性が果てしなく開かれ、流れの上流も下流もなく、主人公の同一性すら保たれていない(ように見える)舞台設定で、到底物語なんて成立しようがないはずなのに一編の小説になっている凄まじさ!
僕らの慣れ親しんでいる物語というものがいかに閉じた前提条件の中でだけ成立しているのかを思い知らされるような小説でした。
(閉じた前提条件で連想していきなり話が飛びますが、先週ディズニープラスで始まったドラマ『ロキ』に登場する、時間の管理者が正統な時間軸以外の可能性を刈り取る「神聖時間軸(Sacred Timeline)」という概念は、物語を進行するために作者が前提条件を整えることの恣意性を露悪的に表明していてうまいなぁと思いました。それでも小松左京の足元にも及びませんが。)
数年経って、物語のディティールどころか骨子さえもほとんど忘れてしまったのに、自分の世界の認識の仕方に不可逆的な変化が起きた感触だけは残っている。『果しなき流れの果に』は僕にとってそんな存在です。
冒頭に引用した曲では、ある出来事や感情を物語化することへ疑義を投げかけるところから始まりますが、そもそも、意味のある言葉をメロディーの上に定着させて、数分間のループするフォーマットに整理して、そのひとつひとつにタイトルを付ける行為、つまり歌を書いて録音する行為が、ある種の物語化から逃れられないことは明白で、その後も僕は相変わらず断片的ではあるが何らかの物語的なものを歌にし続けています。
そして、アルバムというフォーマットは小さな断片的な物語を組み合わせて再物語化する装置でもあります。
小松左京の『果しなき流れの果に』と同じく、曲を作るという行為に向き合うにあたって大きく影響を受けた文学作品がもうひとつあります。こちらを読んだのはもう十何年も前ですが。
自分の記憶力の悪さには、たまにとてもうんざりするのですが、小説にしても映画にしても、ある台詞や場面はかろうじて覚えていても、全体のプロットは全くと言っていいほど覚えていない場合が多く、これもそうしたものの中のひとつです。
J.D.サリンジャーの短編集『ナイン・ストーリーズ』の中の一編「テディ」です。
テディは初めてまっすぐ相手を見た。「あなた、詩人ですか?」と彼は訊いた。
「詩人?」とニコルソンは言った。「いやいや、とんでもない。残念ながら。なんで?」
「よくわかりません。詩人っていつも天気をすごく個人的に受けとめるから。いつも自分の感情を、感情のないものに押し込んでますよね」
J.D.サリンジャー「テディ」柴田元幸訳
テディという少年がとても聡明で、同時にとても絶望していて、これが船旅の途中で出会った男性との天気についての会話の断片であること以外の前後の流れはやはり覚えておらず、手元にある本から覚えていた部分だけを拾って引用しました。
感情のないものに自分の感情を押し込むこと。
テディはそのことを揶揄しているというよりは、事実をありのままに述べているという感じなのですが、確かに詩とはそういうものなのかもしれません。
仮に詩を書く際の禁則事項として「感情のないものに自分の感情を押し込んではならない」という項目でもあろうものなら、イマジネーションの拡がりのない詩ばかり生まれそうな気もします。
振り返れば自分が書いた詩にも多くの感情のないはずの事物が登場していて、だからといってテディを読んでからそれを意識的に避けるようになった訳でもなく、この時に自分の中に起こった変化は、ただ自分が何をしているのかをちょっと自覚するようになったという程度のことなのですが。
これは、それこそつい一年程前のことですが、過去作ってきた自作曲を振り返った時に、自分の書く歌詞に動物が登場することが多いことに気が付きました。そもそもが自らを犬を名乗っていますし、記憶が正しければ高校生の時に初めて書いた曲も、主人公は犬でした。
鹿、猿、虎、カブトムシ、狐、狸、ウミネコ、山猫、鴨、鳩、ウグイス、カモメ、名前の分からない茶色い鳥、便所蜂、カエル、イタチ、河童...
しれっと妖怪も混ざってますが、なんか鳥多め。
もしかしたら鳥というのは自分の感情を押し込む対象にしやすい動物なのかもしれない。
さて、ここまでお読みになられている方がどんな動機によって、2,700文字を超える駄文にお付き合いいただけているのか、僕には見当も付きませんが、一応個人的な記憶を辿りつつではあるものの、自作について語ると宣言しておきながら、さっきから他人の作品についての話しかしていないことにお気づきかもしれません。
そして僕はもうひとつ、やはり自分の創作の影響源である作品を紹介して、この文章を書き終えるつもりでいます。
Bob Dylan "Visions of Johanna"
ボブ・ディラン、1966年発表のアルバム "Blonde On Blonde" に収録されている「ジョアンナのヴィジョン」
僕がこの曲を初めて聴いたのは、2004年です。
音楽を聴く時に、その曲に言葉が載っているのなら、その歌詞の意味内容はその作品を構成する要素として間違いなく重要であり、相手がボブ・ディランならなおさらです。(メッセージがどうこうよりも、単純にひとつの曲に含まれている言葉の圧倒的な量において)
なのですが、正直に申し上げると、僕が音楽を聴く時に歌詞の意味内容を意識することはかなり稀で、それは日本語で歌われている曲においても同様で、ちゃんと意識しないと音としてしか入ってこないのです。
そのことにはちょっと反省もあったりします。というのは、歌詞をしっかりと受け取ればその曲の魅力を何倍も多く受け取れることも経験的に知っているからです。そもそも自分だってかなり心血注いで歌詞を書いてる側でもある訳だし。
といいつつ、ボブ・ディランの多くの曲の歌詞をしっかり読み込むようなことを今に至るまでしてきておらず、先述の小松左京やサリンジャーと同様、長くボブ・ディランの音楽と付き合っている割に、強く記憶に残ったある一部分以外には十分に目を向けられていません。
そんな訳なので、僕が「ジョアンナのヴィジョン」について語ることがかなり的外れである可能性があることをご承知いただきたいと思います。
ただ、当時二十歳だった自分が「ジョアンナのヴィジョン」から受け取ったある真理についてだけ書いておきます。
曲の冒頭の歌詞からちょっと長めに引用します。
対訳は2004年当時に買ったCDに付いていた片桐ユズル訳から。
Ain’t it just like the night to play tricks when you’re tryin' to be so quiet?
We sit here stranded, though we’re all doin’ our best to deny it
そんなにしずかにしようとしてるなんて、なんか計略でもある夜みたいじゃないか?
ここにのりあげたようにすわりこんで、それを否定しようともみんないっしょうけんめいになっている。
And Louise holds a handful of rain, temptin’ you to defy it
Lights flicker from the opposite loft
In this room the heat pipes just cough
The country music station plays soft
But there’s nothing, really nothing to turn off
そしてルイーズはひとにぎりの雨をもって、それに挑戦するようあんたを誘惑している
あかりがちらちらと向いの屋根裏にもれる
この部屋ではスチームのパイプがセキをする
カントリー・ミュージック放送がしずかにきこえる
が何も、切るべきものは、ほんとうに何もない
Just Louise and her lover so entwined
And these visions of Johanna that conquer my mind
ただルイーズとその恋人がもつれあって
ジョアンナのまぼろし、それがわたしのこころを征服する
仮にこの部分があるひとつの情景を描いたものと仮定したとして、これ意味分かります?
引用部分だけで、登場人物を推測できる単語は6つ登場していて、
登場順に 'you', 'we', 'Louise', 'her lover', 'Johanna', 'my mind'
この短い引用部分だけでもかなり混乱させられます。
最初に You がいて、次に We と来るから、あなたと私の間で語られる話かなと思いきや、次に Louise が登場して、Louise が相手にしているのは me ではなく You で、今度は Louise のLover まで現れて、その Lover は You なのか、客観的にその様子を描写しているようにみえる me なのか、それともそれとは別の第三者かとこんがらがっていると、突如 Johanna が登場して your mind でもher mind でもなく、それまで明確に姿を表さなかった話者である me の mind を支配する。
そもそも正しい解釈なんてものは存在しないはずなので、Lover を誰と解釈すると意味が成立するかなどと考えることに全く興味はないのですが、当時この曲を歌詞とともに聴いた僕が衝撃を受けたのはまさにこの話者と登場人物の混乱それ自体でした。
ひとつの曲にひとりの主人公がいて、その主人公の行動や感情を追う。あるいは曲中の別の登場人物に語りかける。
特に意識もせず歌詞とはだいたいそういうふうに組み立てられるものだと思っていた当時の僕にとって、それを混乱させることが紛れもなく曲に奥行きを与えている様はなかなか衝撃的なものがありました。
その衝撃がうまく血肉化されているかどうかとは別として、その後の僕は完全に「ジョアンナのヴィジョン」の影響化にあります。
思えば、小松左京もサリンジャーもボブ・ディランも、自分が影響を受けたポイントを並べると「暗黙の前提を自覚させる表現」というところに共通点がありそうです。
確かに、僕がろくにライブ活動をしなくなっても、仕事やそれ以外の新しいプロジェクトに関わって、いろんな立場でアイデンティティが形成され続ける中でもメス戌&Co.として曲を作り続けていることの源泉は、自分自身をも縛っている暗黙の前提を自覚しておきたいというところにあるのかもしれません。
さて、2,700文字を過ぎたところで宣言した通り、結局自作については何も語らずにこの文章を閉じますが、最後にメス戌&Co.『旧世界ザル』のプレイヤーを埋め込んでおきますので、もしご興味がありましたらお聴きいただければ幸いです。
実のところ、作品そのものについてどうこう語り出せば、終いにはネガティブな言葉しか出てこなくなる予感がしていたから、何も書かなかったのかもしれません。
語ることはできても、それを実行するのがいかに困難かということの教訓
僕の作った音楽作品と、それに付随するこの文章がセットで存在することの意味は、僕自身にとってはそういうことなのかもしれません。
さて、ここまで5,591文字にお付き合いいただいた方。あなたは本当に奇特な方だ。
またどこかでお会いしましょう。
最後にお届けするのは、メス戌&Co.のニューアルバム『旧世界ザル』!
どうもありがとうございます。 また寄ってってください。 ごきげんよう。