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持続可能か見極めるって超むずくない?

2020年が妙にぬるーっと始まって、1月も終わりに差し掛かろうというのにそのままぬるーっと来てしまった感がある。「ぬるー」を別の表現に置き換えないと、多分具体的に何を言ってるのか伝わらないんだろうけど、言ってる本人がいまいち掴めていないので伝わるべくもない。

バウムクーヘンのバッジ

ところで、今年に入ってから、ジャケットの襟にカラフルなバウムクーヘン状のバッジを付けたおじさんにいろんなところで出会う気がします。

その中の何割の人がこの17色のバウムクーヘンのひとつひとつの意味を把握してるんだろうと思って、自分はどのくらい記憶してるか試しに書き出してみたら6個しか正確に思い出せなかった。
それで初めて、17の目標の下の169の達成基準も含めてSDGsの中身を読んでみたら、達成基準の中には今年2020年が期限のものもいくつかあるんですね。そんな最初の期限が迫っているタイミングで急にSDGsマークを頻繁に見かけるようになったのは、実際に急に増えたのか、これまで僕が鈍感だったのか?

消えていく仕事

昨年末、会社の倉庫を整理していると、ここ10年ちょっとでなくなった仕事の予備在庫とか見本とかがいろいろ出てきました。
それらは、もはや時代が必要としなくなって消えていったもの。
そして周りを見渡すと、他にもまもなく時代が必要としなくなりそうなものがまだまだたくさん控えています。
職業上の事柄以外にも、「こんなものは時代に合わなくなってきてるんだからやめてしまおう」とか言いながら、進んで切り捨てていったものがあるような気がします。町内会とか、県人会とか、伝統工芸とか、自分が関わっている小さな世界にそんなトピックが次から次に押し寄せてくる。

「やめてしまおう」に至るまでに、まず考えます。
なぜ今までこれが続けられてきて、なぜ今有効に機能していないのか。続けることによる弊害とやめることによる弊害はそれぞれ何か。
そういう逡巡込みで決めてきたような気がするけど、それはちょっと記憶を美化してしまってるのかもしれません。もっと短絡的に、そういうのもう流行んないしとか、めんどくさいしとか、やる人いないしとか、あるいはとても合理的に判断したつもりで、実際には時流の影響をもろに受けてるだけだったり。

誰目線の持続可能性なのか

ずらーっと並ぶSDGsの目標群を眺めていると、誰目線で持続可能性というやつが議論されているのかちょっと分からなくなるところがあります。
持続可能な開発(Sustainable Development)の定義は「将来の世代の欲求を満たしつつ、現在の世代の欲求も満足させるような開発」ということらしいけど、更に気候変動や海洋・森林の環境というエコロジーの問題系や格差是正や健康の問題まで含み、しかもそれを15年のスパンでやりましょうってなってくると、目標同士が反発しあう部分が明らかにあるように見えるんですよね。それも込みで、がんばって調整していきましょうね…ということではあると思いますが。

自分の手の届く範囲の世界には、自分自身も含め比較的古い産業に携わっている人が多い。15年というサイクルで見た時に、古い産業の内側の変化がどれだけスローかということも、局所的にではあるけど、経験的に知っています。
それを念頭に置いた上で、エコサイクル的に持続可能性が低いとされる産業に携わっている人たちの現状の欲求も満たしつつ、イノベーションをどんどん起こして、ディスラプションを経て、持続可能な開発をしていきましょうって、やっぱり超難問だなって思います。

例えば、そもそもモノを作る時に最後に捨てることを前提にすることから脱しましょうというサーキュラーエコノミーってやつとか。

デザインが「人間中心」の段階を越えて、生きとし生けるものを対象にした「生命中心」になっていかなきゃっていう考え方とか。

とっても大事だなって思うけど、とはいえそうそうドラスティックに変化できない産業もあって、自分自身も半ばその中に身を置いている。そして、産業だけでなく文化や地域社会でも、持続した方が好ましいものが否応なく持続できなくなっていくみたいなことが起きている。

歴史に学べそうな気はしてる

だからといって、シニカルに「これってムリゲーじゃね?」って言いたい訳では全然なくて、自分が今やっている仕事が地球とか人類とかの長い歴史の中でどう意味付けされうるんだろう…みたいなことを、最近は考えています。完全に自意識過剰。
人類にとって印刷とか本とかって何だったんだろう?とか。
薄い紙に文字や図像が刷られ大量に複製されるというハード面での意味や、人間が情報を記録したり整理したり広く発信したりする概念上の意味や、それを代替するテクノロジーが登場した後の意味の変化とか、その変遷を辿れば何か見えるかもしれない。
などと考えて、グーテンベルクの活版印刷の発明が世界をどう変えたのかを知るためにこんな本を読んだり、

情報を整理して伝えるということは、社会にとってどういうことなのかを知るためにこんな本を読みかけたり、

ところが、まぁ予想してたことではあるけど、そんなことをしているとますます分からなくなってくるのです。

「ぬるー」の正体

今なんとなく見えてきたのが、ちょっと自分の手の届かない問題について考えを巡らし過ぎてるなってことです。そして、どうにか変わっていかなきゃなんないと思いつつ、現実の変わり映えのなさにうんざりしかけてる。
2020という、なんかシンメトリーで意味ありげな年を迎えて、あまりにも自分も周りの環境も変わらないので、はっきりとした区切りとかステップのない日常を「ぬるー」と感じるのかもしれません。

とはいえ、そうは言いながら実際大して悲観的でもなくて、今年は去年よりも絶対面白いし、来年はさらに面白くなる!と、なぜか確信しています。
だいたい毎年そうだから。

どうもありがとうございます。 また寄ってってください。 ごきげんよう。