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まちには いろんな かおが いて

ワークショップデザイン論を体系的・継続的に学びたいファシリテーターのためのコミュニティ『WORKSHOP DESIGN ACADEMIA(WDA)』に7月から参加しています。

説明をすっ飛ばすためにリンクを貼りましたが、説明をすっ飛ばしたというよりも、僕自身がひとに説明できる程WDAの活動の細かいところまで十分に把握出来ていないというのが本当のところです。

ワークショップデザインとかファシリテーションとか組織開発とか、もちろんそもそもそういうことに関心があるからこそWDAに入会した訳だし、膨大な動画アーカイブやメルマガから必要な知識を日々拾い集めているところですが、実践経験が極めて少ないためになんとなーくアウェー感もある中、8月下旬にWDAのオンラインコミュニティの中で「note部を始めます」というアナウンスがあったので、最近noteの更新頻度が落ちてきてるし、外的なプレッシャーを加えて書く動機を作るのも悪くないかもと思って手を挙げました。

そんな感じなので、これから書くことがnote部の趣旨にあったものになるのか心許ないですが、初回のテーマは「皆さんの関心領域は?」ということで、とにかくお題を真に受けて自分がフツーに関心のあることから始めてみます。

似たもの探しが好きらしい

最初にワークショップデザインとかファシリテーションとか組織開発に関心があるなどと書きつつ、改めて「関心領域は?」と問われると実はそっちにあんまり関心ないかもとも思えてきました。…というとちょっと語弊がありますが、課題意識とか目的意識はめちゃくちゃあるけど、こう、むくむくと関心が湧き上がってくるという感じじゃないというか。

じゃあ、自分の関心がどこにあるのか、ちょっとnoteの過去記事を振り返って考えてみました。自分の興味・関心がどういうことに強く魅かれるのか、その軌跡を辿ることが出来るのはnoteの効用ですね。あ、これが「リフレクション」ってやつ?いや、違うか。すみません、まだあんまりよく分かってない。

で、自分のnoteを振り返ってみると、ぱっと見音楽の話題が多いけど、実は音楽そのものの話をしていることは稀で、全然別の話題に派生する場合がほとんどです。自分の考え方の癖については以前にもこんなふうに整理したことがあります。

ある作品や現象について気付いた観点があって、それと意味的/構造的に類似性がある(と僕が思う)別の事柄を並べて推論を書く。そしていつもうまく行かず暗礁に乗り上げる。

ここから「自分の関心領域は?」という問いに戻ると、ある特定の領域に関心があるというよりも、その時興味を抱いた事柄についてアナロジーを使って考察するのが好きだ(そして、好きなだけで得意という訳ではない)ということになりそうです。端的に言えば「似たもの探し」が好き。
ワークショップ文脈に引き付けて言えば、場をうまく設計して新しいアイデアが生まれやすい環境を作るプロセスよりも、実際にそこで何と何が結びついて新しいアイデアが生まれるかの方により強く関心がある。

例えば、オンライン上で膨大な量のアイデアの応酬が行われた「謎のアイデア集団」のプロジェクトの経験について5月に投稿したnoteでは、まさにアナロジーの力のことを書きました。

と、ここまで振り返って気が付きましたが、僕はここでアナロジーを「構造的に似ているもの」とほとんど無意識的に定義しています。

このことに気が付いたのは、WDAアーカイブのある動画を観たことが関係しています。

抽象レイヤーのアナロジーと具象レイヤーのアナロジー

ミミクリデザインの安斎勇樹さんとBIOTOPEの佐宗邦威さんの対談を収めた「036 アート思考におけるアナロジーの役割|実践知を探る」という動画

この中でアナロジーについて大きく2種類に分類して論じられている箇所があります。ちょっと引用します。

安斎「形が似ているものを探していくアナロジーと、意味が似ているものを探していくアナロジーでちょっと違うんじゃないかなと思っていて」
佐宗「抽象レイヤーのアナロジーと、具象レイヤーのアナロジーみたいな」
安斎「その辺を佐宗さんがどう使い分けているのかなとか、佐宗さんが最近関心のあるビジュアルで考えるという話とどう結びついてるのかなと思って」
佐宗「思考プロセスのどこでアナロジーを使っているかの違いで、Design ThinkerとDesignerの違いでよく言われているのが、Design Thinkerは何らかの感情刺激を受けた時に、意味合いを認知して解釈してからコミュニケーションをとる際に、認知レベル/抽象レベルの「これは何?」というアナロジーを使う場合が多い。それに対してDesignerの場合、感情刺激があった時に、ジーっと考えて感知する=感覚で捉える。感覚で捉えたものをExpression(表現)してから伝えるという方法を採る。このExpressionのレイヤーでアナロジーが起こる。本当は両方使い得るんだけど、認知が得意な人は認知のレイヤーでアナロジーを生成する癖があるし、表現や具象が得意な人は、具象側のレイヤーでアナロジーを生成する傾向があるっていう話なのかなって思った」

僕なんかは大雑把に一括りに捉えていたアナロジーというものを、ここでお二人は「意味の類似から発想する抽象レイヤーのアナロジー」と「形の類似から発想する具象レイヤーのアナロジー」に分類し、共に重要としながら、どちらを使うかには得意・不得意があるということを語っています。
このやり取りですごく面白いのは、アナロジーを大きく2つに分類した時にそこに優劣を付けず、ただ得意・不得意があるだけであるというところに着地しているところです。
自分が「意味のアナロジー」を「形のアナロジー」よりも知的に高次のものと見ていた節があったことに、この動画で気付かされました。

では、なぜ僕はそんなふうに考えてしまっていたんでしょう?

まちには いろんな かおが いたんだった!

この記事のヘッダーの写真は、5~6歳児向けの月刊誌『こどものとも』の1997年9月号(の2010年10月復刻号)佐々木マキ(マンガ家?絵本作家?ジャンル分けが難しい人)の文と写真で構成された「まちには いろんな かおが いて」です。

表紙からも分かる通り、町を歩いて目・鼻・口を持った顔に見えるいろんなものをただただ見つけていくというもの。

そう、こういうアナロジーって本当に小さい頃から誰もがやってるんですよね。天井の木目が顔に見えて怖いとか、雲がクジラやゾウやソフトクリームに見えるとか。
あんまり当たり前にやってきたこと過ぎて、その程度のことは幼稚で些末なことと切り捨ててしまっていたことに、この本を眺めていると改めて気付かされます。

というのも、この本に次々登場する顔たちは「町の中にある顔を探す」というコンセプトで編集されていることを読者が分かっているからこそそういう目で見れますが、そこには間違いなく佐々木マキという人のクリエイティビティが介在していて、恐らく自分で同じことをやろうとしても絶対に見つけられないだろうなぁというものも多くある訳です。

形の類似なんて誰だって見つけられると高を括ってる間に、いつの間にか世界のあらゆるものから自由に「似たもの探し」をする感性を失ってしまっていたんだな、僕は。

似ているものを見つけて繋げることから考えを拡げる営みをあえて「アナロジカル・シンキング」と名指しする時、それはアイデア創発とかビジネスの役に立つとかイノベーションに繋がるという文脈に乗っかっている場合が多いと思いますが、まずは子供の頃に身につけた似たもの探しの能力を取り戻すところからやってみるのがいいのかもしれません。

だから、もし今日隣でおじさんが笑えないダジャレ(語感のアナロジー)をかましても、あぁ、このおじさんはこの歳になっても子供の頃の瑞々しい感性を忘れていないんだなぁ…と尊敬しこそすれ、決してバカにしちゃあいけません!

どうもありがとうございます。 また寄ってってください。 ごきげんよう。