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ジェットコースター

そういえば、と思い出しました。
小学校の卒業文集のプロフィールの欄に、
「自分の性格を一言で表すと」
といったような欄がありました。
そこに私は、ジェットコースターと書きました。
中学の頃、自分を表現する掛け軸を描くという美術の授業で、必ず描かなくてはならない自画像の頭を切り裂くように、ジェットコースターを書きました。

昨年私は、心療内科で「双極性障害(2型)」と診断されました。

双極性障害については、私が解説するよりも詳しく正しい説明があるのでそちらをご覧下さい。

私個人的な考えでは、双極性障害は病気というよりも気質の部分が多いように感じます。
人それぞれある浮き沈みが定期的にやってくること、本人や周囲の人にそれによる困り事が顕著に生じていること、が病的なのだと思います。

以前に、「生きてるだけで、愛。」という映画を観ました。主人公の寧子もまた、(直接的な表現はありませんが)双極性障害を抱えています。
映画の最も印象的なシーンに、寧子が身につけている物を投げ捨てながら思い切り走るものがあります。

この映画を観た当時、私は自分の精神的な不調に悩んで様々な精神疾患を調べまくっていました。
しかし、どうしてもピンと来るものがなく、自分が弱いのが悪い、だめな人間なんだと、毎日自分を責めていました。
この映画を観て、病気について確証を得たとも言い切れないのですが、この印象的なシーンが私そのものを見ているようで、苦しいような嬉しいような不思議な感覚に包まれました。
というのも、自分の精神的な不調に気付くきっかけとなった出来事が、このシーンと類似していたからです。

真夜中、知り合い10人ほどと食事をしていました。知り合いのする会話に適当に相槌を打ち、参加していましたが、なんだか居心地が悪く、周りの会話や表情、行動に疲れてしまいました。その場を逃げだしたい気持ちに駆られ、全てがどうでもいいような気がして、そのままそこを立ち去りました。目線の先には制限速度を超えて走る数台の車と、赤信号。なんの感情もなく、赤信号に向かいました。
名前も知らない誰かに助けられました。
しかし私はそこからも逃げ出したくて、腕の中をすり抜け、私を引き止めようとする知り合いの腕を噛み、必死に走りました。
持久走は苦手だけど、短距離には自信があったので、全速力で走りました。不思議と疲れなくて、周りの建物が一瞬で後ろへと抜けて行きました。
街頭や車や信号の光がキラキラと輝いて、美しく見えました。靴を脱ぎ捨て、アクセサリーを全て投げ、鞄を放り、走りました。
腕を噛まれた知り合いが、全ての物を拾い上げ、追いかけてくれました。
その知り合いと、お付き合いして1年が経ちました。

苦しみはあの時から始まったので決して良い思い出とは言えません。
しかしなぜか、あの記憶が、私の中で美化されていて、日が経つごとに、状況が変わっていくごとに、輝きを増すのです。

でも、こんな私でも、コンビニのレシートが777だったら嬉しいし、パプリカしかなくて青椒肉絲が食べられなかったら、がっかりします。

私は病気だけど、大した人間でもなければ、変わっているわけでもありません。
皆が楽しんだり、悩んだりするのと同じように楽しみ、悩みます。
その要素の一つに、病気がいるだけで、普通の人間であり、普通に生きています。

ここで病気を公表することに、こんな訳の分からない話をすることに、何の意味があるのか、分かりません。
価値などどこにもないです。
誰にも読まれなくても構いません。

自分にとっては双極性障害が、障害じゃなくステータスであることを忘れないためかもしれません。

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