いつか私も私にとって大好きな私になれますように

早く死にたい
六月末に二十五歳になる
無意味
あまりにも無意味にここまで来てしまった

悲観主義が良いことなのかどうかはさっぱり分からない

自分の人生が無意味なのは全くもって自分のせいではある
皆さんの人生に関しては知りません
すみません

すでに何度か失敗している
昔は、不意に訪れる怖さや親に迷惑をかけることや悲しませることからも失敗していたけど
今は割と大半が「大好きなキャラのあなたが殺してくれるわけでもない死に意味がなさすぎる」と思って我にかえって辞めている気がする

薬なんて効かない
カウンセリングに意味などない

人生、というより生や死に意味を見出し過ぎている
誰が?私を含む世間が

死が救済なのではなくこの世が生きづらすぎるだけ

私はこれらを装っているのかもしれない
あるいは真にそうであってもそれを受容できず装っていると装っているのかもしれない

今死んだら、幼馴染とたくさんしている約束を反故にしてしまう
他にもしている約束が潰えてしまう
それは避けたい
幼馴染を悲しませたくない
しかし、私が死んでしまった後で誰が悲しんでいるとか知りようもなくないか?
そも、これは「悲しんでくれるかも」という私の妄想であり、実際のところは誰もどうとも思わないかもしれない
なぜなら私でいて、穀潰しなので

いつまで生きるのか
今は辛くてもこの先楽しいこともあるよ、なんて言われて十五年が経ちました
人生の半分を憂鬱で潰してしまった
先述したように私の責任ですね

そんなに死生観って重要なのか
確かに自分の中にも存在しているけれど死んだら無くなる全ての思考には意味がないのでは
そう言い出してしまえば全てのことに意味がなくなってしまうのでこの話はここでおしまいです

この歳でこういう浅薄でアイタタタな文章しか書けない幼稚さが生きづらさの原因かもしれない
周囲は年相応に変容していくのに私は十歳から何も変われずにいる
変われなさが周囲との齟齬を生み苦しんでいるのかもしれない

ここでは何者でもない
「めるり」という存在は実在していながら無為
「めるり」はコンテンツであって本来の私というものはどこにもいない
皆さんは「めるり」という架空のアバターを見ている
存在していてしていないのだ
そうでありながら私は平然と「私」としてこのnoteを読んでみてね、と人に宣伝する

死が救済なのではなくて、この世が生きづらすぎるって話しましたっけ?
してたわ

皆さんは何を頼りに今日を生き抜いているんですか?
参考までに教えてください
約束ですか?推しですか?新刊ですか?今日の晩御飯ですか?コミュニケーションですか?実は気がついたら今日までいましたか?
参考までに教えてください

皆さんの明日明後日、これから先に幸福の在らんことを

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