どうしたって
こんなに憂鬱なのか。
会話の意図が汲めなくて、やりたいこととできることの間に差があって、人に優しくできなくって、中学時代の経験故に高校以降の友人と接することが怖くて、やらなきゃいけないことができなくて、知識や教養の浅さに愕然として、他にも色々なことがあってその全部が私の首を緩やかに絞める。
薬も効いてるんだか効いてないんだかさっぱり分からない。ピークよりマシかも、なんて思えるのは単純に環境が変わったからであって私自身の認知なんかは変わってないんじゃないかな。
自分の病名にだって納得していないけどその事にも嫌気がさす。病気を盾に楽になりたいだけじゃないのかって。その症状で辛い人はもっとたくさんいてそれで悩んで日々を生きているのに、私はそうなることで楽になりたいと思ってるんじゃないの?それって浅はかで不躾で最低。だから誰もお前を愛さない。
こうなったのは元来の性質なのか、あの時がキッカケなのか、その両方なのかもう私には分からない。
仮にあの時がキッカケだったとして、彼女たちを恨む気にもさらさらなれない。私自身も彼女たちかもしれないから。少しでも今までの人生の中で自分に非があるとすれば、ーあるのは間違いないがー、それを棚に上げて誰かを批判できない。それはそれ、これはこれ、なのかもしれないけれどやっぱりできない。文章にするとまるで善人面。綺麗事。そんなつもりで言ってないのに。あーあ、次は被害者面ですか?
できることなら明るく振舞おうと思っている。だって誰もがその方が好きだから。やっぱりイライラして誰かにあたる人間より、明るくて優しく親切な方がいいと思う。だから明るくいようと努めている。
人にこうあれ!というよりは私がしたいだけなので誰かの話じゃない。
明るくいればいるほど、自分が死んでいくような感覚に陥る。どれが私なのかアレは私じゃない?でも私の意思でああしている。じゃあ本当の私はどれなのか。どれも?そうかもね。
どうして生きてるのだろう。かといって死ぬことも怖い。死、そのものが怖いというより、もし次があったら、ということの方が怖い。今より恵まれた何かになれる保証も確証もなく、かといってまた自分なのは嫌気がさす。
死が怖い、ということは生きたいということなのだろうか?そうなのかも。私って本当は生きたいのかも。そうかな?それすらもわからない。生死って根源的な感情だとおもうけど、それすらもわからず日々を消費することへの罪悪感。親に謝りたい。かといって謝ったあとのあの親の悲しそうな顔。あれはもう見たくない。結局何もできずに毎日を消化するしかない。
早く楽に、あるいは幸せになりたい。
いつでも元気で明るくて前向きで、全員に愛されているわけじゃないけど多くの人に愛されていて、自分の人生をもっと愛してあげれて、誰かのことも自分のこともきちんと考えられていて、親が「よかった」と言えるような私に早くなりたい。
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