殻を脱ぐ

noteでの毎日投稿をやめて、2週間。
昨日の深夜に何気なく久しぶりの執筆をしたけれど、実はすっごく辛かった。

「文章を書く」ことは好きでも、「noteを書く」というのは、また少し違う。
どうしても私の投稿スタンス上、内容は自分自身の内面のことになりがちで、そうするとどうしてか、どんどん自分という存在を赤裸々にしていくような辛さと、同時に身が楽になるような快感がある。

たった2週間ではあるけれど、毎日の更新を経て、私はどこかその快感に慣れていた。
人間は常に刺激を求める生き物だからこそ、初めのうちは新鮮で、楽しい。でもどこかで飽きが来る。

そんな中、久しぶりに書いた昨日のnote。
もちろん2週間も熟成期間を経たので、書くこと、書きたいことはたくさんあった。けれど、どうしても言葉が上手くまとまらない。

あんなに苦しいnote執筆は、初めてだった。

書くことをやめていた訳では無い。ほぼ毎日日記はつけていたし、プラスアルファで思考整理のためのメモも取っていた。趣味の小説執筆も行っていた。けれど、それを「公開」することはしていない。

実は小説に関しても、色々あってここ2年くらい、書いたものを誰にも公開していない。ひっそりと自分のフォルダの中に眠らせたままにしてある。

だしてしまえば、読まれていることに抵抗は無い。
これでも一応10年以上インターネットに文章を上げているので、数字を逐一気にするようなフェーズもとっくの昔に過ぎている。自己満足は覚えている。

なのにどうしてか、無意識に「公開」にうっすらと恐怖心があることに気付いた。
誰かに読まれる前提の文章を書くことに、やはり私は慣れていないのだろうと思う。

思えば、特に他人の思考導線を考えて文章を書いたことがない。
思いつく情景、感情、ストーリーを描写するための「手段」としての文章しか、私は書いたことがないのだ。

いわばそれは感情の放出と同じで、子供のわがままみたいなものだろう。
なんだか、そんな自分が少しだけ恥ずかしくなった。

人に見せるために内容を小綺麗に整頓するのではなく、他人に心の内を伝えようとするための、「読ませる文章」を書く技術が、私には足りない。
だから、「公開する」「読まれる」ことを前提にした時、上手く言葉が出てこなくて、喉が焼けるような、苦しさがある。

小説を書いていてもそうで、脳内でいくらでもストーリーは浮かぶのに、それをどこかへ公開する前提で筆を進めると、びっくりするくらい筆が止まって、全てが嫌になる。そうして書きかけになったままの話が、たくさんある。

私はもしかしたら、メンタルが強くなったのではなく、人前で自分をさらけ出せなくなったのではないだろうか。
怖がるが故に、うまく笑っているように、傷つかないようにするために、人と距離をとる事が上手くなっただけなのではないか。

それは確かに強いのかもしれないけれど、いいのだろうか。
私は私らしく、誰にも染まらず折れずにいたいのに、隠れるようにして社会に溶け込むことは、果たして正解?

確かに生きやすくなったようには思うけれど、少し苦しい。
息が詰まりそうで、寂しい。

こうしてまだここで、思っていることを吐露できるだけ、マシなのかもしれないけれど。

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