自分の人生の責任は自分自身にしかない

 久しぶりに文章を書く。
 なんなら、パソコンを開いたのも久しぶりかもしれない。

 私は4月、無事に採用が決まり、かつて途中挫折してしまったグラフィックデザインの業務もできるポジションでの就業が始まった。
 高校を卒業して5年。フリーターばかりでろくな就業経験のない私にとって、正社員、かつそれ相応に責任の伴うポジションでの採用というのは、未知の体験。それでもやる気だけは誰よりもある、という意気込みで入社。

 でも正直苦しい。めっちゃ苦しい。自分の心の矮小さを思い知らされる日々に辟易している。なんて馬鹿だろうかとひしひしと痛感している。希死念慮に駆られたり、辞めたい、と思うことはない。死んだって何か解決するわけでもないし、辞めて違う会社に行ったって同じだろうと思うから。

 いかにもそれらしいことを並べてしまうけれど、とどのつまりこれが社会で生きていく上で、私の最もたる悪癖なのだと思う。

 仕事ができれば、業務ができればそれでいいのではない。
 「まだ若いから」そう言って職場の人たちは私を大きく咎めることはしないけれど、それもまた、腫れ物に触るように扱われているようで苦しい。

 間違いを咎めることは問題なのか?
 常識というのは時代と共に変化していくものだ。
 けれど、会社側の認識がアップデートされていないのか、私の認識が間違っているのか、その判別のしようはない。正解なんてないのかもしれない。

 けれど、その一点がもし問題になった時、会社の信用に関わる問題に発展した時、間違いなく矛先が向くのは私なのだ。

 分からない。正解なんてないのかもしれない。
 うまくやってほしい、の「うまく」は、単に社員間の結束にヒビを入れるなという話なのか。それとも、より顧客の視点に立ち、会社の利益を上げることに準じろという認識なのか。
 曖昧な言葉で明確な指示がないのもまた、会社としての方向性が分からず、一社員としての立ち振る舞い方も図りかねる。

 特に、私のポジションには前例がないため、尚のこと困っている。前任者はいたそうだが、私とは就業期間が被っておらず、その方の社内での立ち振る舞いを実際に見ているわけではないからだ。

 ただ、私はこの一件を、マイナスには捉えていない。
 こうして少し特殊な環境に身を置くことで、私自身のスキルアップになるという、自己成長の兆しを感じているからだ。そして何よりも、思いの外自分に裁量権のある仕事に抵抗がなく、寧ろその方がスムーズに業務が執り行える、という事を日々痛感している。

 それをきっかけに、改めて自分自身と向き合うきっかけになれたのではないのだろうかと思う。
 何においても自己分析というものは重要だが、この課題を糧に少しでも自己理解を深めることができるのならいい。

 長らく自分の文章をインターネット上に公開していなかったため、自分用の日記と文体が同じになってしまい、非常に堅苦しくなってしまったが、これを書きながら、初めてnoteを投稿した日を思い出した。

 あの頃から、少しは自分を取り繕わずにさらけ出せるようになっただろうか。
 公開の有無はさておき、こうして自分についての文章を認める習慣がついた今、少しでも自分を見つめ直すきっかけになっていたのなら、あの日泣きながら書いていた文章は無駄ではなかったのだと、少しは救われるかもしれない。


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