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丸福食堂

名古屋に行くまで

高校時代、大学進学を望んでいた。
だが決して裕福な家庭環境ではなく、両親ともに共働き。
両親に相談という相談はほとんどできず、専門学校を選んだ。

テニススクールや社会人テニスへの送り迎えなど様々なサポートをしてもらっていたから、正直十分すぎるほどのサポートを受けていた。
僕なりの忖度だった。

ただ進学自体がとてもお金がかかること。
両親に専門学校には行きたいと相談し、無利子で奨学金を借りるための面談に行き、兄が使っていた新聞奨学金制度を使って進学の道に進んだ。
そうしてようやく進学という道をつかんだ。
ただ、テニスから一つ燃え尽きていた自分は、アルバイトで掴んだ小売りの感触を基に経営の道を専門学校で学ぼうとしていた。
なんとも曖昧で。
結局学校説明会で当時説明を受けた方に経営などを学ぶ科はあまり就職に有利に働かない。情報処理科の方が有利になるよ。という誘導になぜか導かれ、プログラミングなどを学ぶこととなった。
先行き不安な門出だったと今でも思う。

名古屋栄のほっとステーション

岐阜からの道。
とても心細かったのだが、兄と同じ道ということで少し楽だった。
弟特有の先人の通った道を見て決めるということは自分にとっては良かったのかもしれない。

名古屋栄のマンションに、歳も近い寮生たちとの生活が始まった。

新聞配達は思いのほかとてもきつかった。
朝の3時半に起き、4時には新聞と広告を組む。
自分の配達区域で、一軒ごとに日経や産経、とっている新聞を全て組んでいき、新聞の束を作っていく。
配り始めてから終わるまで約2~3時間。
とりわけ自分は、全配達員が配っているところ全てを覚えて、配達員の休みの日に代配をする役目だったため、栄あたりをやたら自転車で走っていた。
また学校終わり、みんながどこかで飯食っていくかという中、自分1人新聞配達に戻り夕刊を配っていた。
まあ学生生活としては新聞配達ということがほぼだったが、唯一の癒しはコンビニの女の子との会話か、名古屋栄のほっとステーションのだった。

丸福食堂
ここのおじちゃんとおばちゃん、卵焼きが心の支えだった。
朝配達終わりに、夕刊配達終わりに。
新聞店と契約していたお店だったが、寮生の憩いの場となり、大切なコミュニティとなっていた。
正直言うと新聞配達を選んだことを後悔したこともあった。
毎朝のルーティン、学校生活を満喫する間さえなく、何のためにこんなことをしているのかわからなくなるときさえあった。
でも行くと必ず、

『ゆうちゃん、きょうはなににする?』

そう話してくれる。
そしてたわいもない話をするのだ。
栄の話、私生活の話、おじちゃんがゴミ捨て場から拾ったAVの話、新聞店の話。
その話にほっとし、自分の家をみた。
寮生もいて、ただただ温かかった。
そこで食べる400円の卵焼きの朝食定食は、追求しても出せない味で。
懐かしくて今でも食べたくなる。

いたときは2年としかいなかったが、卒業してからもよく通った。
おじちゃん、おばちゃん、元気?
まるで自分の叔父、叔母のように慕った。
新聞店の社長が倒れ、中にいたボス的存在の中村さんが亡くなったとき、兄が亡くなった時、一緒に泣いてくれた。

辛いときにそっと支えてくれた場所。
そんな場所に憧れ自分もそんな関わり方をしたいと思わせたきっかけ。
それが丸福商店。

2012年12月を最後に店は閉店した。
今でもおじちゃんとおばちゃんのこと、あの卵焼きのことを思い出す。
あんなあったかいところにまた行けたらなと。
すごく温かなコミュニティに誘われ、ふと思い出した。





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